誇り高いインドネシア人と、朝鮮人の差
投稿者: waracchauyo5 投稿日時: 2008/01/25 19:30 投稿番号: [87395 / 230347]
インドネシア人も、朝鮮人の真逆。
普段の態度も、大人しく礼儀正しく、だが、いったん、ことがあれば勇敢に戦う。これも朝鮮人の真逆。
二次大戦の終結とともに、イギリス軍、オランダ軍、オーストラリア軍と三つの国の軍隊が進駐してきたが、これと初めから対抗、自力で戦い抜いて、独立を勝ち取った。
一方の朝鮮は、北にソ連軍、南にアメリカ軍がそれぞれ、軽武装でハイキングのようにやってきて、朝鮮人は旗をふって大歓迎。
そのまま、何の抵抗もなしに!占領されたまま、それっきり、現在に至る(爆笑)朝鮮人とは、全然違う!
>インドネシア独立戦争(1945年 - 1949年)は、日本が第二次世界大戦で連合国へ降伏した後の旧オランダ領東インドで、独立を宣言したインドネシア共和国と、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダとの間で発生した戦争(独立戦争)。
4年5ヶ月の戦争で80万人が犠牲になった。
10月25日にスラバヤに上陸したイギリス軍第49旅団は、民衆に武器の提出を求めるチラシを全市で配布し、これがインドネシア側を刺激した。このチラシをイギリスからの宣戦布告であると受け止めたインドネシア人は、同28日、29日、30日にわたってスラバヤ市内に展開するイギリス軍を攻撃し、これに打撃をあたえた。イギリスとの交渉環境の悪化を危惧したスカルノやハッタがスラバヤに飛来して停戦を成立させたが、10月30日夜、その停戦ラインの侵犯をめぐって銃撃戦が起こり、英印軍の旅団長マラビー准将が射殺された。
イギリス側(英印軍)は、この他にも共和国側の武装組織との交戦によって多数の死傷者を出しており(1946年11月28日の完全撤退までに死傷者1377人、うち戦死者407人、行方不明者162人)、また、インドの世論もインドネシアの民族独立運動の弾圧に英印軍が利用されることに反対し、インド総督も英印軍の早期撤退をイギリス政府に要請していた。
10月半ばから下旬にかけては、英印軍第26師団がスマトラのメダン、パレンバンなどに進駐した。このように、ジャワとスマトラは英軍指揮下にあったが、チモール、カリマンタン、スラウェシ、アンボンなどの「外島」はオーストラリア軍が部分的に占領した。
1946年1月4日、インドネシア共和国政府は首都を治安の悪化したジャカルタからジョグジャカルタに移し、大統領スカルノ、副大統領ハッタらはジョグジャカルタに退避し、イギリス・オランダとの交渉は、ジャカルタに残った共和国首相シャフリル(外相兼任)、国防相アミル・シャリフディン(情報相兼任)が担っていくことになった。
一方、オランダ軍部隊が東インドに派遣されると続々と増加して12万人に達し、インドネシア側との本格的衝突が懸念された。1946年11月末に予定されたイギリス軍部隊のインドネシアからの完全撤退を前に、停戦協定の締結が急がれることになった。
共和国側はスマトラで臨時政府樹立(臨時首相はシャフルディン・プラウィラネガラ蔵相)を宣言、逮捕されたスカルノもオランダとの交渉継続を破棄し、徹底抗戦を全国民に訴えた。このように共和国政府の存続を国際的にアピールするとともに、インドネシア側の武装勢力も組織的な抵抗を開始した。スディルマン国軍司令官の号令の下、農村部や地方都市でゲリラ戦や治安の撹乱をすすめ、1949年3月1日にはオランダ占領下のジョグジャカルタ奪還作戦を敢行し、一時オランダ軍を窮地に追い込んだ。
オランダの全面攻勢によってインドネシア共和国は存続の危機に瀕したが、オランダの軍事的勝利は外交的敗北の始まりだった。オランダがインドネシアの各地で設立した傀儡国家では急速にオランダ離れがすすみ、これらの地域が後にインドネシア共和国に合流する素地を作った。
また、国際世論は植民地主義に固執するオランダを激しく非難し、国連安保理は12月24日の決議でオランダに共和国指導者の釈放を要求した。
とりわけ、マディウン事件で左派勢力を一掃したハッタ政権を高く評価していたアメリカは、オランダへの経済援助の停止を通告し、和平協議復帰への圧力をかけた。
こうした国際世論の圧力のもとにオランダは和平受諾に追い込まれて行く。
また、インドネシアにおける過大な軍事費支出は、ドイツの占領で疲弊したオランダ経済にとって耐え難いものとなっていたのである。<
普段の態度も、大人しく礼儀正しく、だが、いったん、ことがあれば勇敢に戦う。これも朝鮮人の真逆。
二次大戦の終結とともに、イギリス軍、オランダ軍、オーストラリア軍と三つの国の軍隊が進駐してきたが、これと初めから対抗、自力で戦い抜いて、独立を勝ち取った。
一方の朝鮮は、北にソ連軍、南にアメリカ軍がそれぞれ、軽武装でハイキングのようにやってきて、朝鮮人は旗をふって大歓迎。
そのまま、何の抵抗もなしに!占領されたまま、それっきり、現在に至る(爆笑)朝鮮人とは、全然違う!
>インドネシア独立戦争(1945年 - 1949年)は、日本が第二次世界大戦で連合国へ降伏した後の旧オランダ領東インドで、独立を宣言したインドネシア共和国と、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダとの間で発生した戦争(独立戦争)。
4年5ヶ月の戦争で80万人が犠牲になった。
10月25日にスラバヤに上陸したイギリス軍第49旅団は、民衆に武器の提出を求めるチラシを全市で配布し、これがインドネシア側を刺激した。このチラシをイギリスからの宣戦布告であると受け止めたインドネシア人は、同28日、29日、30日にわたってスラバヤ市内に展開するイギリス軍を攻撃し、これに打撃をあたえた。イギリスとの交渉環境の悪化を危惧したスカルノやハッタがスラバヤに飛来して停戦を成立させたが、10月30日夜、その停戦ラインの侵犯をめぐって銃撃戦が起こり、英印軍の旅団長マラビー准将が射殺された。
イギリス側(英印軍)は、この他にも共和国側の武装組織との交戦によって多数の死傷者を出しており(1946年11月28日の完全撤退までに死傷者1377人、うち戦死者407人、行方不明者162人)、また、インドの世論もインドネシアの民族独立運動の弾圧に英印軍が利用されることに反対し、インド総督も英印軍の早期撤退をイギリス政府に要請していた。
10月半ばから下旬にかけては、英印軍第26師団がスマトラのメダン、パレンバンなどに進駐した。このように、ジャワとスマトラは英軍指揮下にあったが、チモール、カリマンタン、スラウェシ、アンボンなどの「外島」はオーストラリア軍が部分的に占領した。
1946年1月4日、インドネシア共和国政府は首都を治安の悪化したジャカルタからジョグジャカルタに移し、大統領スカルノ、副大統領ハッタらはジョグジャカルタに退避し、イギリス・オランダとの交渉は、ジャカルタに残った共和国首相シャフリル(外相兼任)、国防相アミル・シャリフディン(情報相兼任)が担っていくことになった。
一方、オランダ軍部隊が東インドに派遣されると続々と増加して12万人に達し、インドネシア側との本格的衝突が懸念された。1946年11月末に予定されたイギリス軍部隊のインドネシアからの完全撤退を前に、停戦協定の締結が急がれることになった。
共和国側はスマトラで臨時政府樹立(臨時首相はシャフルディン・プラウィラネガラ蔵相)を宣言、逮捕されたスカルノもオランダとの交渉継続を破棄し、徹底抗戦を全国民に訴えた。このように共和国政府の存続を国際的にアピールするとともに、インドネシア側の武装勢力も組織的な抵抗を開始した。スディルマン国軍司令官の号令の下、農村部や地方都市でゲリラ戦や治安の撹乱をすすめ、1949年3月1日にはオランダ占領下のジョグジャカルタ奪還作戦を敢行し、一時オランダ軍を窮地に追い込んだ。
オランダの全面攻勢によってインドネシア共和国は存続の危機に瀕したが、オランダの軍事的勝利は外交的敗北の始まりだった。オランダがインドネシアの各地で設立した傀儡国家では急速にオランダ離れがすすみ、これらの地域が後にインドネシア共和国に合流する素地を作った。
また、国際世論は植民地主義に固執するオランダを激しく非難し、国連安保理は12月24日の決議でオランダに共和国指導者の釈放を要求した。
とりわけ、マディウン事件で左派勢力を一掃したハッタ政権を高く評価していたアメリカは、オランダへの経済援助の停止を通告し、和平協議復帰への圧力をかけた。
こうした国際世論の圧力のもとにオランダは和平受諾に追い込まれて行く。
また、インドネシアにおける過大な軍事費支出は、ドイツの占領で疲弊したオランダ経済にとって耐え難いものとなっていたのである。<
これは メッセージ 1 (the_rich_and_smooth さん)への返信です.
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