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日本の技術を学んで帰った通信使

投稿者: umikazo365 投稿日時: 2007/10/09 16:41 投稿番号: [70978 / 230347]
日本から水車や和紙の技術を学んでも結局朝鮮には定着しなかった。それだけ技術レベルが低かったんだね。(笑)

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室町時代前期の一四二九年、日本に来た朴端生は、
「日本の農人、水車の設けあり」として、
学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作り、
鍍銀(銀メッキ)、造紙(紙漉)、朱紅、軽粉などの製造法を報告している。

この時の復命では、
日本の貨幣経済の実態や、
店舗商業の発展等にも及んだが、
その中で技術にまで言及していたのは、
渡航前に世宗から「倭の紙、堅籾、造作の法また宜しく伝習すべし」
、、、、、と、日本の技術を導入するように命じられていたからである。

だが、残念なことに、それらの技術はいずれも朝鮮の風土に定着しなかった。

灌漑施設としての水車の優秀性は、その後も何度か提議されていたし、
造紙のほうも17世紀になり、柳馨遠が「倭の楮(こうぞ)の軽沢精緻に如かず」と、
日本の楮である倭楮を使った紙の製造を提唱しているからだ。

これらの事実は、朝鮮側には日本の技術を受容し、
維持するだけの土壌が整っていなかったことを示している。

これに対して日本では、朴端生が日本を訪れる百年以上も前に、
水車を利用して離宮に川の水を汲み上げた話が「徒然草」(第五十一段)に記されている。

その水車が、農民達の手で取り付けられていた事を考えると、
当時、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があったことが解る。


したがって、韓国の歴史教科書にあるように
「技術を学ぶのに苦労していた」のは、日本側ではなく、寧ろ朝鮮の方であったのである。


日韓・歴史克服への道   下條正男   著   より

韓国では
19世紀末まで農業用の灌漑施設は、
大方、腕力による流水の汲み上げしかなく、
足踏み水車すらほとんど見ることができなかったから、
一般には「天水水田」といって雨水に頼り、きわめて原始的な農業が行われていた。

http://toron.pepper.jp/jp/middle/tsusin/siire.html
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