現地島民より日本軍関与の証言
投稿者: rty3657898 投稿日時: 2007/10/04 17:49 投稿番号: [70446 / 230347]
沖縄戦で限られた場所で起こった集団自決が行われた三ヶ所の隊長達の関与についての住民達の証言がある。
渡嘉敷島赤松隊長、座間味島梅澤隊長、慶留間島野田隊長、阿嘉島(鈴木中隊長「野田隊」)が集団自決に関与した証言
渡嘉敷島の指揮官の赤松大尉(当時二十五歳)は、島の巡査の安里氏が、部落民をどうするか相談 にいった時に「我々は今のところは、最後まで(闘って)死んでもいいから、あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ」と言っています。
また、(集団自決後)4人の女性が部隊の本部に行った時には 「何でこんな早まったことするね、皆、避難しなさい」とさとし、 4人はこの言葉で気を取り直し、無事生きのびました。同じように女子青年団長が5、6人の女子団員と一緒に斬り込み隊に出ることをお願いに行った時に、「何のためにあなた方は死ぬのか、命は大事にしなさい」と怒って戻させています。
平成5年、渡嘉敷島北部の集団自決跡地に建てられた碑には、渡嘉敷村の関係者が議論を重ねた末「軍命令」とは一切刻まれていない。
渡嘉敷村資料館には今でも赤松大尉の恩賜の時計と浮田堅太郎軍医の聴診器が記念品として飾られています。
座間味島の指揮官の梅澤少佐は、島の指導者が相談に来て自決用の手榴弾を求めた時に、断わって追い返しています。となりの阿嘉島でも、鈴木茂治整備中隊長のところへ、与那嶺区長(屋号シレー小)が自決用の手榴弾をもらいたと相談にきましたが、鈴木中隊長は「住民が死ぬことはない。死ぬのはぼくたちだけでよい」と自決を思いとどまるよう説得して成功しています。その晩、鈴木中尉は米軍に切り込みに行って戦死。
『慶留間島』
二十六日の斬り込みの晩、防衛隊の人たちが戦隊長のところへ行って「部落民をどうしますか、みんな殺してしまいますか」ときいたわけです。野田隊長は、「早まって死ぬことはない。住民は杉山に集結させておけ」と指示したそうです。
杉山というのは、杉に似た木が何本か生えているところで、そこは三方に高い山があって谷間になっています。どこから弾がとんできてもあたらない安全地帯です。そこに、三八〇名ほどの島民が一カ所にかたまって避難していました。避難というより、部落民はそこで一緒に死ぬつもりで集まっていたわけです。私もその夜は杉山へ行って家族と一緒にいました。
翌日、山の上をみると、そこに谷間に向けて機関銃を据えて兵隊が三名ついているのが見えました。後で聞いたんですが、糸林軍医が二名の兵隊をひきいて銃座についていたということです。その友軍の機関銃を見て、住民は、いざとなったら自分たちを一思いに殺してくれるんだと、安心していました。みんな一緒に玉砕できるんだということで、かえって混乱がしずまったんです。当時の私たちは、とにかくアメリカにつかまったら、マタ裂きにされて、大変になるんだと、そればっかりがこわかったわけですから、敵が上陸してきたら玉砕するんだとみんなが思っていたわけです。
仲村村長の話で、阿嘉の守備隊の鈴木大尉という人物が、命をつなぐ重要性を島民に説いていた。鈴木大尉は、稲作の指導も島民にしていたが、条植えを指導する中で、その技術をきちんと引き継いでいくためにも島民は生き残らなければならないと言って、自らは突撃の死を遂げていった」ということをお話しになっておられました。今でも、島のおじいやおばあは、鈴木大尉を大変尊敬していて、各自の家で祀ったりしているそうです。
(野田隊)
普段から「兵隊は国のために死んではいけないよ。いや、むしろ兵隊たちでも命を大切にしなければいけないがね。……だから私は絶対に死なない。敵が上陸したらすぐに逃げるんだ」と口ぐせのように住民に語っていた整備中隊の少尉がいた。その少尉は米軍が上陸してくると朝鮮人軍夫二〇人ほどを引き連れ、白旗を掲げて投降していった。
渡嘉敷島赤松隊長、座間味島梅澤隊長、慶留間島野田隊長、阿嘉島(鈴木中隊長「野田隊」)が集団自決に関与した証言
渡嘉敷島の指揮官の赤松大尉(当時二十五歳)は、島の巡査の安里氏が、部落民をどうするか相談 にいった時に「我々は今のところは、最後まで(闘って)死んでもいいから、あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ」と言っています。
また、(集団自決後)4人の女性が部隊の本部に行った時には 「何でこんな早まったことするね、皆、避難しなさい」とさとし、 4人はこの言葉で気を取り直し、無事生きのびました。同じように女子青年団長が5、6人の女子団員と一緒に斬り込み隊に出ることをお願いに行った時に、「何のためにあなた方は死ぬのか、命は大事にしなさい」と怒って戻させています。
平成5年、渡嘉敷島北部の集団自決跡地に建てられた碑には、渡嘉敷村の関係者が議論を重ねた末「軍命令」とは一切刻まれていない。
渡嘉敷村資料館には今でも赤松大尉の恩賜の時計と浮田堅太郎軍医の聴診器が記念品として飾られています。
座間味島の指揮官の梅澤少佐は、島の指導者が相談に来て自決用の手榴弾を求めた時に、断わって追い返しています。となりの阿嘉島でも、鈴木茂治整備中隊長のところへ、与那嶺区長(屋号シレー小)が自決用の手榴弾をもらいたと相談にきましたが、鈴木中隊長は「住民が死ぬことはない。死ぬのはぼくたちだけでよい」と自決を思いとどまるよう説得して成功しています。その晩、鈴木中尉は米軍に切り込みに行って戦死。
『慶留間島』
二十六日の斬り込みの晩、防衛隊の人たちが戦隊長のところへ行って「部落民をどうしますか、みんな殺してしまいますか」ときいたわけです。野田隊長は、「早まって死ぬことはない。住民は杉山に集結させておけ」と指示したそうです。
杉山というのは、杉に似た木が何本か生えているところで、そこは三方に高い山があって谷間になっています。どこから弾がとんできてもあたらない安全地帯です。そこに、三八〇名ほどの島民が一カ所にかたまって避難していました。避難というより、部落民はそこで一緒に死ぬつもりで集まっていたわけです。私もその夜は杉山へ行って家族と一緒にいました。
翌日、山の上をみると、そこに谷間に向けて機関銃を据えて兵隊が三名ついているのが見えました。後で聞いたんですが、糸林軍医が二名の兵隊をひきいて銃座についていたということです。その友軍の機関銃を見て、住民は、いざとなったら自分たちを一思いに殺してくれるんだと、安心していました。みんな一緒に玉砕できるんだということで、かえって混乱がしずまったんです。当時の私たちは、とにかくアメリカにつかまったら、マタ裂きにされて、大変になるんだと、そればっかりがこわかったわけですから、敵が上陸してきたら玉砕するんだとみんなが思っていたわけです。
仲村村長の話で、阿嘉の守備隊の鈴木大尉という人物が、命をつなぐ重要性を島民に説いていた。鈴木大尉は、稲作の指導も島民にしていたが、条植えを指導する中で、その技術をきちんと引き継いでいくためにも島民は生き残らなければならないと言って、自らは突撃の死を遂げていった」ということをお話しになっておられました。今でも、島のおじいやおばあは、鈴木大尉を大変尊敬していて、各自の家で祀ったりしているそうです。
(野田隊)
普段から「兵隊は国のために死んではいけないよ。いや、むしろ兵隊たちでも命を大切にしなければいけないがね。……だから私は絶対に死なない。敵が上陸したらすぐに逃げるんだ」と口ぐせのように住民に語っていた整備中隊の少尉がいた。その少尉は米軍が上陸してくると朝鮮人軍夫二〇人ほどを引き連れ、白旗を掲げて投降していった。
これは メッセージ 70440 (kiyoakl さん)への返信です.
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