日本と韓国の議論の広場

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

対馬に来いよw また、こうなるよwww

投稿者: p10l9 投稿日時: 2007/10/02 19:05 投稿番号: [70241 / 230347]
>李氏朝鮮では世宗が即位していたが、実権は太宗が握っており、太宗は倭寇撃退を口実にして対馬への軍事侵略を決め、世宗元年6月、227隻17,285名からなる大軍を李従茂に率いさせ対馬に侵攻させた。この時期は対馬の有力者が明などに渡航して留守であることを知っており、また同時に朝鮮国内にいる無辜の在留商人らをいっせいに略取し強制労働に当てるなど、武器をもたない弱者を標的にした周到な計画であったことが知られる。

また、太宗こと李芳遠は号令の中で「古書によれば対馬は慶尚道の隷属」などと根も葉もないことを主張した。

6月17日に巨済島を出航したが逆風ですぐに引き返し、6月19日に再出航している。朝鮮軍は6月20日昼頃に対馬の尾崎浦(朝鮮王朝実録には豆知浦とある)附近へ上陸。その一帯の一般民衆の船舶129隻を焼き払い20隻を奪い、民家1939戸を焼き払い、また104(実録には首級114)の民衆を虐殺したとされる。また、朝鮮王朝実録には中国人・本国人(朝鮮人)などを捕らえたと書いてある。捕

らえられた中国人は、朝鮮軍の弱小ぶりを詳細に見たことから中国に返還できないという意見もあったが、事大の礼をつくすため返還されることとなった(世宗実録)。

しかし6月26日頃、仁位郡(実録では尼老郡)で対馬側の伏兵に遭い多大な損害を受けた。

李従茂の軍は尾崎浦まで引き返し、戦局は膠着状態に陥った。6月29日に朝鮮側は宗氏に対して対馬の属州化などを要求する使者を送るが宗氏に拒絶された。

戦況は対馬側の反撃により膠着し、損害の大きくなった朝鮮側は対馬側の和平提案を受け入れ7月3日に巨済島へ全面撤退した。

朝鮮側の被害は日本の資料では死傷者2500以上、世宗実録では6月29日の記録では死者百数十人、7月10日の記録では180人とされている。

しかし180人としても総数の約100分の1であり、総数の100分の1程度の被害で和平提案を受け入れ撤退することは考えにくく、敗戦と自ら明記していることからも被害はもっと大きいと思われる。

8月5日の議論では日本の戦死者20人に対し朝鮮側が百余名とされており、正規軍での対戦では朝鮮軍は日本軍に歯が立たなかった。

朝鮮軍の弱小ぶりは、保護された中国人の扱いにおいて「対馬での朝鮮軍の弱小ぶりを詳細に見たことから中国に返還できない」という記録や、朴実が敗戦の罪により投獄され、李従茂が国民への影響を理由に免罪となった記録からも窺える。<
http://ja.wikipedia.org/wiki/応永の外寇


朝鮮軍1万8000   対   対馬藩将兵700人の戦いで、

朝鮮軍は最低でも2500人、最大7000人の死傷者。

対馬藩   死者20名、負傷60名(しかも、死者のうち、16名は戦後、数年して怪我を悪化させた病死)


どれだけ、朝鮮兵が弱かったかは、捕虜になって、中国に帰った中国人達が克明に語り、記録に残っている。

・朝鮮軍は、将軍がまず真っ先に逃げ、兵を率いる将が次ぎに逃げ、その兵卒が逃げ、最後に兵達が逃げ回り、すべて日本の将兵にいいように刈りとられた。逃げた将軍も遠距離からの日本武士の矢により、簡単に殺された。

・或る戦いでは、村民、対馬兵達が包囲されたが、鎧兜を着た対馬武士が一人で躍り出て、名を名乗り、朝鮮軍の中に分け入り、たった一人で、一刻ほども戦い、斬り続けたが、最後まで朝鮮将兵はかなわず、ほとんど皆、一人に斬り殺された。

・或る戦いでは、村の広場で朝鮮兵数百名、対馬武士数十人が対峙して斬り合いになったが、朝鮮将兵は皆殺され、対馬武士は、怪我一つ負わなかった。


今も格闘技で負け続ける朝鮮人だけどさ、昔から、ガチでやると、滅茶苦茶に、中国人も笑いこけるほど弱いw
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)