Re: 日本と韓国の議論の広場
投稿者: nakayokujpnkor 投稿日時: 2007/10/02 16:41 投稿番号: [70200 / 230347]
朝鮮(一八九七年に国号を「大韓」に改称)の併合・植民地支配の動きは、明治維新の直後から始まっています。日本は、その従属化の一つ一つを、武力による威嚇や直接的な武力の行使で朝鮮に押しつけてきました。
▼江華島事件と日朝修好条規
日本政府は、1876年、それまで鎖国政策をとっていた朝鮮に開国を強要し、不平等条約である「日朝修好条規」を押しつけました。
その対朝鮮外交は、前年の75年に始まりましたが、それは、朝鮮の首都漢城(現在のソウル)沖合に軍艦をおくって水深測量などを強行し、それにたいして江華島の朝鮮守備隊が砲撃すると、日本軍は同島を攻撃し占拠するというものでした(江華島事件)。
そして翌76年、その賠償を口実に、軍艦6隻、砲兵1個小隊、歩兵1個中隊を引き連れてのりこみ、日本の治外法権や日本からの輸入関税を無税とする不平等条約を結ばせました。幕末にペリーが黒船でやってきて、日本に不平等条約を押しつけたやり方を、そっくりそのまま朝鮮にたいしておこなったのです。
▼朝鮮王妃・閔妃暗殺事件
日清戦争の直前(1894年)には、日本と中国(清国)との間で中立を守ろうとする朝鮮にたいし、軍隊で王宮を急襲して占拠し、国王をとりこにして、中国との条約を廃棄させるなどして、むりやり日本側につかせました。
日清戦争後は、朝鮮王妃の閔妃が、日本の強圧的な従属化政策に反対する立場をとりますが、それにたいして、95年、朝鮮に派遣されていた公使(いまでいう大使)の三浦梧楼が、武装集団をひきいて王宮に乱入し、閔妃を殺害してしまいました。
▼日露戦争から「保護条約」へ
日露戦争のときには、開戦と同時に軍隊を動員して首都を占領し、軍事的制圧下で、日本への協力を約束させました(「日韓議定書」1904年2月)。つづいて、8月には、第1次日韓協約で、日本政府の推薦する「顧問」を韓国政府に押しつけました。
1905年には、「保護条約」(第2次日韓協約)を押しつけ、韓国の外交権を奪い、日本の「保護国」としました。このときは、日本軍の歩兵1個大隊、砲兵中隊、騎兵隊が王宮前などで「演習」と称して示威的な軍事行動をとるなか、日本側の代表である伊藤博文が、韓国駐在軍司令官や憲兵隊長をともなって王宮におしいって、目の前で閣議を開かせて「保護条約」の承認をせまり、強引に調印させてしまいました。
これを認めなかった韓国皇帝は、ハーグで開かれていた第2回万国平和会議(1907年)に密使を送って、日本の国際法違反を訴えようとしましたが、日本は、これを理由に、王宮に歩兵1個大隊を送って、韓国皇帝に譲位を強要するとともに、内政権まで奪う第3次日韓協約を結ばせました(1907年7月)。
韓国各地では、閔妃殺害事件の直後から、武力による抗日闘争(「義兵闘争」)が広がりました。その規模は、日本側の記録でも、1907〜10年に2800回以上、朝鮮側の参加者は14万人以上にのぼりました。これにたいし、日本側は軍隊をつかった激しい弾圧を加え、朝鮮人2万人以上の死傷者を出すなど大きな犠牲をあたえました。
▼江華島事件と日朝修好条規
日本政府は、1876年、それまで鎖国政策をとっていた朝鮮に開国を強要し、不平等条約である「日朝修好条規」を押しつけました。
その対朝鮮外交は、前年の75年に始まりましたが、それは、朝鮮の首都漢城(現在のソウル)沖合に軍艦をおくって水深測量などを強行し、それにたいして江華島の朝鮮守備隊が砲撃すると、日本軍は同島を攻撃し占拠するというものでした(江華島事件)。
そして翌76年、その賠償を口実に、軍艦6隻、砲兵1個小隊、歩兵1個中隊を引き連れてのりこみ、日本の治外法権や日本からの輸入関税を無税とする不平等条約を結ばせました。幕末にペリーが黒船でやってきて、日本に不平等条約を押しつけたやり方を、そっくりそのまま朝鮮にたいしておこなったのです。
▼朝鮮王妃・閔妃暗殺事件
日清戦争の直前(1894年)には、日本と中国(清国)との間で中立を守ろうとする朝鮮にたいし、軍隊で王宮を急襲して占拠し、国王をとりこにして、中国との条約を廃棄させるなどして、むりやり日本側につかせました。
日清戦争後は、朝鮮王妃の閔妃が、日本の強圧的な従属化政策に反対する立場をとりますが、それにたいして、95年、朝鮮に派遣されていた公使(いまでいう大使)の三浦梧楼が、武装集団をひきいて王宮に乱入し、閔妃を殺害してしまいました。
▼日露戦争から「保護条約」へ
日露戦争のときには、開戦と同時に軍隊を動員して首都を占領し、軍事的制圧下で、日本への協力を約束させました(「日韓議定書」1904年2月)。つづいて、8月には、第1次日韓協約で、日本政府の推薦する「顧問」を韓国政府に押しつけました。
1905年には、「保護条約」(第2次日韓協約)を押しつけ、韓国の外交権を奪い、日本の「保護国」としました。このときは、日本軍の歩兵1個大隊、砲兵中隊、騎兵隊が王宮前などで「演習」と称して示威的な軍事行動をとるなか、日本側の代表である伊藤博文が、韓国駐在軍司令官や憲兵隊長をともなって王宮におしいって、目の前で閣議を開かせて「保護条約」の承認をせまり、強引に調印させてしまいました。
これを認めなかった韓国皇帝は、ハーグで開かれていた第2回万国平和会議(1907年)に密使を送って、日本の国際法違反を訴えようとしましたが、日本は、これを理由に、王宮に歩兵1個大隊を送って、韓国皇帝に譲位を強要するとともに、内政権まで奪う第3次日韓協約を結ばせました(1907年7月)。
韓国各地では、閔妃殺害事件の直後から、武力による抗日闘争(「義兵闘争」)が広がりました。その規模は、日本側の記録でも、1907〜10年に2800回以上、朝鮮側の参加者は14万人以上にのぼりました。これにたいし、日本側は軍隊をつかった激しい弾圧を加え、朝鮮人2万人以上の死傷者を出すなど大きな犠牲をあたえました。
これは メッセージ 70193 (numbergl さん)への返信です.
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