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北朝鮮問題・帰国事業と日本共産党の罪

投稿者: igutikeigi771 投稿日時: 2007/07/21 22:08 投稿番号: [61133 / 230347]
■帰国実現を訴え続けた機関紙『アカハタ』
  そのことは当時の日本共産党機関紙『アカハタ』で、年末に帰国第一船が出航した昭和34年だけでも、1面で40回以上にわたって帰国事業の交渉の行方を詳細に報じていることからもうかがえる。
  『アカハタ』が同紙の「社説」ともいえる「主張」欄で最初にこの問題を取り上げたのは、昭和33年10月である。「在日朝鮮人の帰国要求を全面的に支持する」とのタイトルは、
●当時の岸内閣を批判し、一刻も早く、在日朝鮮人の帰国実現を訴えかける内容のものだった。
  一方、その後ともに帰国運動に協力したとされる日本社会党の機関紙『社会新報』は、これらの経緯にほとんど触れていない。昭和34年最終号である12月25日号の「社会新報が選んだ本年の10大ニュース」においても、帰国船の話は一行も出てこない。
  社会党が北朝鮮と密接な関係をもつようになるのはこれよりずっと後の1970(昭和45)年8月の成田知巳委員長(当時)の北朝鮮訪問からで、それまでの
●日本側の窓口は日本共産党の独断場だった。


地上の楽園”を演出し、責任回避してきた日本共産党の償うべき「汚点」〜 ■在日朝鮮人を「死の国」に送還しつづけた日本共産党
  問題にすべきは、当事者の間ですでに2、3年後には、北朝鮮が「地上の楽園」でないようだということがはっきりしてきたにもかかわらず、同党は最後まで、帰国事業を推進する側にまわり続けてきたという事実である。
  北朝鮮の朝鮮労働党と日本共産党の関係は、当時、密接なものがあったが、日本共産党の訪朝団は以下のように5回にわたって派遣されている。
  ①   1959(昭和34)年2月   宮本顕治団長
  ②   1961(昭和36)年9月   宮本顕治団長
  ③   1964(昭和39)年4月   袴田里見団長
  ④   1966(昭和41)年3月   宮本顕治団長
  ⑤   1968(昭和43)年8月   宮本顕治団長

  このうち、最初の訪朝団は、帰国船が出る年のはじめに派遣された。ここで宮本顕治書記長(当時)と金日成委員長は、在日朝鮮人帰国の“即時実現”に合意する共同コミュニケを発表している。その後2回目となる61年の訪朝で再び団長をつとめた宮本書記長は、朝鮮労働党第4回大会に出席し、こうあいさつしている。
  「同志のみなさん、われわれ両党の共同コミュニケで課題の一つとなっていた在日朝鮮公民の祖国への帰国問題はすでに完全に実行に移され、今日までに7万1000人の人びとが希望にしたがって朝鮮民主主義人民共和国に帰国することができました。‥‥‥わが党も日本のすべての民主勢力とともに日本支配グループのあらゆる妨害をはねのけながら、この問題の解決の促進に協力できたことを喜んでいます」(1961・9・12)
  また、同党の第3回訪朝団となる64年には、受入れ側の李松雲・朝鮮労働党平壌市委員長が次のような言葉で袴田団長らを迎え入れている。
  「日本共産党は、日本の労働者階級と勤労人民の革命的前衛隊であるばかりでなく、国際共産主義運動のたのもしい隊列であり、強力な部隊である。‥‥‥日本共産党と日本の民主主義勢力は、在日朝鮮公民の帰国事業に積極的に協力したし、祖国への自由往来を実現するための在日朝鮮同胞と全朝鮮人民の正当な要求を全面的に支持している」(1964・3・30)



朝鮮人を共産党の努力で地獄の北朝鮮への死の帰還させた責任は共産党の責任が大であることは明々白々のことである。

がしかし、日本にとって、共産党の、「質が悪く無職の朝鮮人を本国帰還させた功績」は大きい。(パチパチパチ・拍手
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