朝鮮通信使、朝鮮人の妄想と惨めな現実
投稿者: parmesan100cheese 投稿日時: 2007/06/24 09:35 投稿番号: [59422 / 230347]
朝鮮人は、朝鮮通信使が、日本側が呼んだから来ていたと妄想したいらしいが、通信使は、あくまで、再侵攻があるのではないかと日本を恐れて、中国、朝鮮側が偵察のために送っていたのが史実。問い合わせは常に朝鮮側がやって、日本側が形式的に呼んだことになるが、あくまで形式的な話し。日本側は、対馬の貿易業のことしか、当初、考えていなかった。対馬と朝鮮の貿易が可能になった後は、すべて、朝鮮側が幕府への祝賀で来る以外は、一切認めていないことでも、扱いの程度が分かる。
しかも、日本人側は、礼節をもって当然、客として相対して、交流を図ろうとしたが、朝鮮側の愚かな言動で、すべて台無しになった。
実態は、以下のようなもの。
>朝鮮通信使は主として将軍家を祝賀するためにやってきた国使(通信使は将軍の代替わりや世継ぎの誕生に際して、朝鮮側から祝賀使節として派遣)であり、中国皇帝に対する朝貢使節と同様の役割(これで、どうして、朝鮮側が何か教えにきたと妄想できるのだろう?)、すなわち将軍の権威の誇示に利用された。
同時に、鎖国を国是としていた当時の日本において、間接的にではあっても中国文化に触れることのできる数少ない機会でもあり、通信使の宿泊先には多くの日本の文人墨客が集まり、大いに交流がなされるという副産物をもたらした。藤原惺窩をはじめとした儒家同士も交流があった。
江戸時代を通じて朝鮮通信使一行のための迎賓館として使用された備後国鞆の浦(現在の広島県福山市鞆町)の福禅寺境内の現在の本堂と隣接する客殿(対潮楼)は江戸時代の1690年に建立され、日本の漢学者や書家らとの交流の場となった。1711年に従事官の李邦彦が客殿から対岸に位置する仙酔島や弁天島の眺望を「日東第一形勝(朝鮮より東で一番美しい景勝地という意」)と賞賛し、1748年に正史の洪啓禧が客殿を「対潮楼」と名づけた書をのこし、それを額にしたものが対潮楼内に掲げられている。
とはいえ、この交流は漢詩や朱子学など本来は中国の文化についてのものであり、李氏朝鮮自身が日本にまして中国文化に傾倒していた事実を考えれば、韓国側の主張するところの朝鮮独自の文化の理解や導入という点での意義がどれほどあったものかどうかは分からない。また、朝鮮通信使は日本に関し、事実であると否とを問わずさまざまな事柄を見下す傾向が強く、日本国内の道中や文化交流の際にも周囲や日本の文人に対して著しく無礼な態度をとることが多かったようである。
無礼の例としては、供された食事に難癖をつける、夜具を盗むなどがあり、警護に当たる対馬藩士が侮辱を受けることはしばしばだったという。
このような事情から一般町人には嫌われ、町人と喧嘩沙汰になることも多々あり、横柄な態度の割に非常に弱く簡単に叩きのめされたという。
喧嘩が発生すると侍は本来警護の者として制止すべき立場であるにもかかわらず、止めるふりすらしなかったといい、道中の内実がいかなるものであったかが伺える。
その一方、基本的に日本人を「倭人」として見下しながらも、古く室町には平仮名、片仮名と言った固有文字の存在に、江戸時代には、京都、大阪、江戸といった都市の絢爛豪華さ、そして乞食が食物ではなく銭を欲しがるような貨幣経済の発達に対して驚きの声を上げた(李氏朝鮮では、その末期においても都市部で中国の銅銭が流通していた程度であり、最後まで貨幣経済と呼ぶに足るものが成立せず、物々交換が主であったため)といった記録が残っており、
また、朝鮮で後に飢饉を救ったサツマイモや揚水式水車など、日本から相応の文物を持ち帰っていたようである。
特に歴代の朝鮮通信使は日本の揚水式水車に興味を示し、幾度もその構造を絵図面に写して自国に持ち帰ったものの、その後に李氏朝鮮でこの種の水車が用いられたという歴史がないことから実現はしなかったようである。
ただしこのような事実は、現在の韓国の歴史認識と背反しているため、韓国側では日本側による捏造・歪曲とされることが多い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮通信使
しかも、日本人側は、礼節をもって当然、客として相対して、交流を図ろうとしたが、朝鮮側の愚かな言動で、すべて台無しになった。
実態は、以下のようなもの。
>朝鮮通信使は主として将軍家を祝賀するためにやってきた国使(通信使は将軍の代替わりや世継ぎの誕生に際して、朝鮮側から祝賀使節として派遣)であり、中国皇帝に対する朝貢使節と同様の役割(これで、どうして、朝鮮側が何か教えにきたと妄想できるのだろう?)、すなわち将軍の権威の誇示に利用された。
同時に、鎖国を国是としていた当時の日本において、間接的にではあっても中国文化に触れることのできる数少ない機会でもあり、通信使の宿泊先には多くの日本の文人墨客が集まり、大いに交流がなされるという副産物をもたらした。藤原惺窩をはじめとした儒家同士も交流があった。
江戸時代を通じて朝鮮通信使一行のための迎賓館として使用された備後国鞆の浦(現在の広島県福山市鞆町)の福禅寺境内の現在の本堂と隣接する客殿(対潮楼)は江戸時代の1690年に建立され、日本の漢学者や書家らとの交流の場となった。1711年に従事官の李邦彦が客殿から対岸に位置する仙酔島や弁天島の眺望を「日東第一形勝(朝鮮より東で一番美しい景勝地という意」)と賞賛し、1748年に正史の洪啓禧が客殿を「対潮楼」と名づけた書をのこし、それを額にしたものが対潮楼内に掲げられている。
とはいえ、この交流は漢詩や朱子学など本来は中国の文化についてのものであり、李氏朝鮮自身が日本にまして中国文化に傾倒していた事実を考えれば、韓国側の主張するところの朝鮮独自の文化の理解や導入という点での意義がどれほどあったものかどうかは分からない。また、朝鮮通信使は日本に関し、事実であると否とを問わずさまざまな事柄を見下す傾向が強く、日本国内の道中や文化交流の際にも周囲や日本の文人に対して著しく無礼な態度をとることが多かったようである。
無礼の例としては、供された食事に難癖をつける、夜具を盗むなどがあり、警護に当たる対馬藩士が侮辱を受けることはしばしばだったという。
このような事情から一般町人には嫌われ、町人と喧嘩沙汰になることも多々あり、横柄な態度の割に非常に弱く簡単に叩きのめされたという。
喧嘩が発生すると侍は本来警護の者として制止すべき立場であるにもかかわらず、止めるふりすらしなかったといい、道中の内実がいかなるものであったかが伺える。
その一方、基本的に日本人を「倭人」として見下しながらも、古く室町には平仮名、片仮名と言った固有文字の存在に、江戸時代には、京都、大阪、江戸といった都市の絢爛豪華さ、そして乞食が食物ではなく銭を欲しがるような貨幣経済の発達に対して驚きの声を上げた(李氏朝鮮では、その末期においても都市部で中国の銅銭が流通していた程度であり、最後まで貨幣経済と呼ぶに足るものが成立せず、物々交換が主であったため)といった記録が残っており、
また、朝鮮で後に飢饉を救ったサツマイモや揚水式水車など、日本から相応の文物を持ち帰っていたようである。
特に歴代の朝鮮通信使は日本の揚水式水車に興味を示し、幾度もその構造を絵図面に写して自国に持ち帰ったものの、その後に李氏朝鮮でこの種の水車が用いられたという歴史がないことから実現はしなかったようである。
ただしこのような事実は、現在の韓国の歴史認識と背反しているため、韓国側では日本側による捏造・歪曲とされることが多い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮通信使
これは メッセージ 1 (the_rich_and_smooth さん)への返信です.
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