「なんちゃてイージス」の世宗大王の由来
投稿者: parmesan100cheese 投稿日時: 2007/05/21 08:29 投稿番号: [56439 / 230347]
世宗なんて、要するに、口先だけで、卑怯、姑息な朝鮮らしい王。
まるで話にならない朝鮮のいくさの代表例のような戦いを対馬でやった。惨めを通り越して、笑われるだけだろう。
小さな孤島を、用意周到に準備した大軍を送り、不意打ちにしながら、大敗して、中国人の目撃者にもあまりの弱さに呆れられている。
その上、いくさが終わった後で、勝ったと言い出す姑息ぶり。
だからこそ、格好だけ日本のイージスに似せた「なんちゃってイージス艦」の名前にしたのか?
データリンクなしの「なんちゃってイージス」じゃ、ただのミサイル輸送船だ。
しかも、世界でただ一隻の「なんちゃってイージス艦」だ。誇らしいだろう(笑えるね)
それで、弱い朝鮮を象徴する「世宗」の名を冠したんだろう。
ほんとうに、涙が出てくるほど笑える滑稽な話。
>室町時代の1419年(応永26年)、
李氏朝鮮では世宗が即位していたが、実権は太宗が握っており、太宗は倭寇撃退を口実にして対馬への軍事侵略を決め、世宗元年6月、227隻17,285名からなる大軍を李従茂に率いさせ対馬に侵攻させた。
この時期は対馬の有力者が明などに渡航して留守であることを知っており、また同時に朝鮮国内にいる無辜の在留商人らをいっせいに略取し強制労働に当てるなど、武器をもたない弱者を標的にした周到な計画であったことが知られる。
朝鮮軍は6月20日昼頃に対馬の尾崎浦(朝鮮王朝実録には豆知浦とある)附近へ上陸。その一帯の一般民衆の船舶129隻を焼き払い20隻を奪い、民家1939戸を焼き払い、また104(実録には首級114)の民衆を虐殺したとされる。また、朝鮮王朝実録には中国人・本国人(朝鮮人)などを捕らえたと書いてある。
捕らえられた中国人は、朝鮮軍の弱小ぶりを詳細に見たことから中国に返還できないという意見もあったが、事大の礼をつくすため返還されることとなった(世宗実録)。
しかし6月26日頃、仁位郡(実録では尼老郡)で対馬側の伏兵に遭い多大な損害を受けた。李従茂の軍は尾崎浦まで引き返し、戦局は膠着状態に陥った。
6月29日に朝鮮側は宗氏に対して対馬の属州化などを要求する使者を送るが宗氏に拒絶された。
戦況は対馬側の反撃により膠着し、損害の大きくなった朝鮮側は対馬側の和平提案を受け入れ7月3日に巨済島へ全面撤退した。
朝鮮側の被害は日本の資料では死傷者2500以上、世宗実録では6月29日の記録では死者百数十人、7月10日の記録では180人とされている。
8月5日の議論では日本の戦死者20人に対し朝鮮側が百余名とされており、正規軍での対戦では朝鮮軍は日本軍に歯が立たなかった。朝鮮軍の弱小ぶりは、保護された中国人の扱いにおいて「対馬での朝鮮軍の弱小ぶりを詳細に見たことから中国に返還できない」という記録や、朴実が敗戦の罪により投獄され、李従茂が国民への影響を理由に免罪となった記録からも窺える。
2006年9月17日、韓国国防部の戦史編纂研究所は、李氏朝鮮までの軍事戦略を分析した資料3冊を発刊し、うち「朝鮮時代の軍事戦略」編で応永の外寇の分析を行った。
それによると、軍事的には『討伐』には失敗したが、「対馬は土地が不毛で生活が苦しい。島民を巨済島などに住まわせ、対馬を朝鮮領土と見なして州郡の名称と印信を賜れば、我々は適切に臣下の礼をもって命令に従う。」との降伏文書を出させたとし、政治・外交的には成功したと結論付けた。
しかし、世宗実録1420年閏1月10日には「時応界都が言うには(曰)」と記録されており、韓国国防部のいう降伏文書にあたるものは見あたらない。
また、世宗実録の1419年7月22日には「対馬での敗軍時に保護した11人の中国人がいる。彼らは敗戦のさまを見ており、我が国が弱いことを知っているので中国に返還することはできない」との意見も書かれており、自ら敗戦と明記しているにもかかわらず対馬が降伏したと主張する韓国国防部の分析については疑問が残る。
また、上記の降伏条件を上宣した時応界都は偽使者であり、1421年4月7日に正式な宗氏の使者である仇安里から「そんなものは妄言である。対馬を攻めるのは日本を攻めるのと同じだ」と恫喝さえされている。
朝鮮の回礼使の宋希蓂は「日本国王が喜ぶと思ってやったこと」と言い訳をいう状態であり、外交的にも大失敗だと考えられる。<
まるで話にならない朝鮮のいくさの代表例のような戦いを対馬でやった。惨めを通り越して、笑われるだけだろう。
小さな孤島を、用意周到に準備した大軍を送り、不意打ちにしながら、大敗して、中国人の目撃者にもあまりの弱さに呆れられている。
その上、いくさが終わった後で、勝ったと言い出す姑息ぶり。
だからこそ、格好だけ日本のイージスに似せた「なんちゃってイージス艦」の名前にしたのか?
データリンクなしの「なんちゃってイージス」じゃ、ただのミサイル輸送船だ。
しかも、世界でただ一隻の「なんちゃってイージス艦」だ。誇らしいだろう(笑えるね)
それで、弱い朝鮮を象徴する「世宗」の名を冠したんだろう。
ほんとうに、涙が出てくるほど笑える滑稽な話。
>室町時代の1419年(応永26年)、
李氏朝鮮では世宗が即位していたが、実権は太宗が握っており、太宗は倭寇撃退を口実にして対馬への軍事侵略を決め、世宗元年6月、227隻17,285名からなる大軍を李従茂に率いさせ対馬に侵攻させた。
この時期は対馬の有力者が明などに渡航して留守であることを知っており、また同時に朝鮮国内にいる無辜の在留商人らをいっせいに略取し強制労働に当てるなど、武器をもたない弱者を標的にした周到な計画であったことが知られる。
朝鮮軍は6月20日昼頃に対馬の尾崎浦(朝鮮王朝実録には豆知浦とある)附近へ上陸。その一帯の一般民衆の船舶129隻を焼き払い20隻を奪い、民家1939戸を焼き払い、また104(実録には首級114)の民衆を虐殺したとされる。また、朝鮮王朝実録には中国人・本国人(朝鮮人)などを捕らえたと書いてある。
捕らえられた中国人は、朝鮮軍の弱小ぶりを詳細に見たことから中国に返還できないという意見もあったが、事大の礼をつくすため返還されることとなった(世宗実録)。
しかし6月26日頃、仁位郡(実録では尼老郡)で対馬側の伏兵に遭い多大な損害を受けた。李従茂の軍は尾崎浦まで引き返し、戦局は膠着状態に陥った。
6月29日に朝鮮側は宗氏に対して対馬の属州化などを要求する使者を送るが宗氏に拒絶された。
戦況は対馬側の反撃により膠着し、損害の大きくなった朝鮮側は対馬側の和平提案を受け入れ7月3日に巨済島へ全面撤退した。
朝鮮側の被害は日本の資料では死傷者2500以上、世宗実録では6月29日の記録では死者百数十人、7月10日の記録では180人とされている。
8月5日の議論では日本の戦死者20人に対し朝鮮側が百余名とされており、正規軍での対戦では朝鮮軍は日本軍に歯が立たなかった。朝鮮軍の弱小ぶりは、保護された中国人の扱いにおいて「対馬での朝鮮軍の弱小ぶりを詳細に見たことから中国に返還できない」という記録や、朴実が敗戦の罪により投獄され、李従茂が国民への影響を理由に免罪となった記録からも窺える。
2006年9月17日、韓国国防部の戦史編纂研究所は、李氏朝鮮までの軍事戦略を分析した資料3冊を発刊し、うち「朝鮮時代の軍事戦略」編で応永の外寇の分析を行った。
それによると、軍事的には『討伐』には失敗したが、「対馬は土地が不毛で生活が苦しい。島民を巨済島などに住まわせ、対馬を朝鮮領土と見なして州郡の名称と印信を賜れば、我々は適切に臣下の礼をもって命令に従う。」との降伏文書を出させたとし、政治・外交的には成功したと結論付けた。
しかし、世宗実録1420年閏1月10日には「時応界都が言うには(曰)」と記録されており、韓国国防部のいう降伏文書にあたるものは見あたらない。
また、世宗実録の1419年7月22日には「対馬での敗軍時に保護した11人の中国人がいる。彼らは敗戦のさまを見ており、我が国が弱いことを知っているので中国に返還することはできない」との意見も書かれており、自ら敗戦と明記しているにもかかわらず対馬が降伏したと主張する韓国国防部の分析については疑問が残る。
また、上記の降伏条件を上宣した時応界都は偽使者であり、1421年4月7日に正式な宗氏の使者である仇安里から「そんなものは妄言である。対馬を攻めるのは日本を攻めるのと同じだ」と恫喝さえされている。
朝鮮の回礼使の宋希蓂は「日本国王が喜ぶと思ってやったこと」と言い訳をいう状態であり、外交的にも大失敗だと考えられる。<
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/ffckdca4h4z9qa4n5doc0a4n9adbel_1/56439.html