豊臣 徳川のキリシタン迫害は日本防衛?
投稿者: scorpionti 投稿日時: 2007/02/03 18:53 投稿番号: [46964 / 230347]
日本の歴史教科書はキリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事は教えないのはなぜか?
2006年1月27日 金曜日の日記 日本宣教論序説(16) 2005年4月 日本のためのとりなし
わたしは先に第4回 天主教の渡来 の中で、日本におけるキリシタンの目覚ましい発展と衰退の概略を述べました。しかし、ここではキリシタンがたどった土着化の過程について考察してみたいと思います。後で詳しく述ぺますが、わたしの先祖はキリシタンでありました。わたしは伊達政宗の領地であった岩手県藤沢町大籠(おおかご)地区での
大迫害で生き残ったかくれキリシタンの末裔です。
今はプロテスタントの牧師ですが、わたしの中にはキリシタンの血が流れていると思います。三年前の夏、
父の郷里藤沢町を初めて訪問してこの事実を知ってから、キリシタンについてのわたしの関心は以前より深く
なりました。そしてキリシタンについての知識も少し増えました。四百年前のキリシタンを知ることが現代の
わたしたちと深く関わってくると思いますので、先ず追害の理由から始めたいと思います。
1.キリシタン遣害の理由
宣教師ルイス・フロイスが暴君と呼ぶ豊臣秀吉が「伴天連(ばてれん)追放令」を発したのは、1587年7月24日
(天正15年6月19目)でした。これは天正(てんしょう)の禁令として知られる第1回のキリシタン禁止令です。
それ以後徳川時代にかけて、次々に発せられた禁止令の理由をまとめると、次の五つになるでしょう。
(1)植民地政策
キリシタンの宣教は西欧諸国の植民地政策と結びついていました。それは、初めに宣教師を送ってその国をキリスト教化し、
次に軍隊を送って征服し植民地化するという政策です。秀吉は早くもそのことに気づいて主君信長に注意をうながしています。
ポノレトガル、スペインのようなカトリック教国は強力な王権をバックに、大航海時代の波に乗ってすばらしく
機能的な帆船や、破壌力抜群の大砲を武器として、世界をぐるりと囲む世界帝国を築き上げていました。
その帝国が築き上げた植民地や、その植民地をつなぐ海のルートを通って、アジアでの一獲千金を夢見る
冒険家たちが、何百、何千とビジネスに飛ぴ出していきました。
そうした中にカトリックの宣教師たちも霊魂の救いを目指して、アジアに乗り出して行ったのです。
彼らが求めたのは、霊魂の救いだけではなく、経済的利益でもありました。
ザビエルがゴアのアントニオ・ゴメス神父に宛てた手紙から引用すると、
「神父が日本へ渡航する時には、インド総督が日本国王への親善とともに献呈できるような相当の額の金貨と
贈り物を携えてきて下さい。もしも日本国王がわたしたちの信仰に帰依することになれぱ、ポルトガル国王に
とっても、大きな物質的利益をもたらすであろうと神かけて信じているからです。堺は非常に大きな港で、
沢山の商人と金持ちがいる町です。日本の他の地方よりも銀か金が沢山ありますので、
この堺に商館を設けたらよいと思います」(書簡集第93)
「それで神父を乗せて来る船は胡椒をあまり積み込まないで、多くても80バレルまでにしなさい。なぜなら、
前に述ぺたように、堺の港についた時、持ってきたのが少なけれぱ、日本でたいへんよく売れ、
うんと金儲けが出来るからです」(書簡集第9)。
ザビエルはポルトガル系の改宗ユダヤ人(マラーノ)だけあって、金儲けには抜け目ない様子が、手紙を通じても
窺われます。ザビエル渡来の三年後、ルイス・デ・アルメイダが長崎に上陸しました。この人も改宗ユダヤ人で、
ポルトガルを飛ぴ出してから世界を股にかけ、仲介貿易で巨額の富を築き上げましたが、
なぜか日本に来てイエズス会の神父となりました。彼はその財産をもって宣教師たちの生活を支え、
育児院を建て、キリシタン大名の大友宗瞬に医薬品を与え、大分に病院を建てました。
(2)奴隷売買
しかし、アルメイダが行ったのは、善事ばかりではなく、悪事もありました。それは奴隷売買を仲介したことです。続
2006年1月27日 金曜日の日記 日本宣教論序説(16) 2005年4月 日本のためのとりなし
わたしは先に第4回 天主教の渡来 の中で、日本におけるキリシタンの目覚ましい発展と衰退の概略を述べました。しかし、ここではキリシタンがたどった土着化の過程について考察してみたいと思います。後で詳しく述ぺますが、わたしの先祖はキリシタンでありました。わたしは伊達政宗の領地であった岩手県藤沢町大籠(おおかご)地区での
大迫害で生き残ったかくれキリシタンの末裔です。
今はプロテスタントの牧師ですが、わたしの中にはキリシタンの血が流れていると思います。三年前の夏、
父の郷里藤沢町を初めて訪問してこの事実を知ってから、キリシタンについてのわたしの関心は以前より深く
なりました。そしてキリシタンについての知識も少し増えました。四百年前のキリシタンを知ることが現代の
わたしたちと深く関わってくると思いますので、先ず追害の理由から始めたいと思います。
1.キリシタン遣害の理由
宣教師ルイス・フロイスが暴君と呼ぶ豊臣秀吉が「伴天連(ばてれん)追放令」を発したのは、1587年7月24日
(天正15年6月19目)でした。これは天正(てんしょう)の禁令として知られる第1回のキリシタン禁止令です。
それ以後徳川時代にかけて、次々に発せられた禁止令の理由をまとめると、次の五つになるでしょう。
(1)植民地政策
キリシタンの宣教は西欧諸国の植民地政策と結びついていました。それは、初めに宣教師を送ってその国をキリスト教化し、
次に軍隊を送って征服し植民地化するという政策です。秀吉は早くもそのことに気づいて主君信長に注意をうながしています。
ポノレトガル、スペインのようなカトリック教国は強力な王権をバックに、大航海時代の波に乗ってすばらしく
機能的な帆船や、破壌力抜群の大砲を武器として、世界をぐるりと囲む世界帝国を築き上げていました。
その帝国が築き上げた植民地や、その植民地をつなぐ海のルートを通って、アジアでの一獲千金を夢見る
冒険家たちが、何百、何千とビジネスに飛ぴ出していきました。
そうした中にカトリックの宣教師たちも霊魂の救いを目指して、アジアに乗り出して行ったのです。
彼らが求めたのは、霊魂の救いだけではなく、経済的利益でもありました。
ザビエルがゴアのアントニオ・ゴメス神父に宛てた手紙から引用すると、
「神父が日本へ渡航する時には、インド総督が日本国王への親善とともに献呈できるような相当の額の金貨と
贈り物を携えてきて下さい。もしも日本国王がわたしたちの信仰に帰依することになれぱ、ポルトガル国王に
とっても、大きな物質的利益をもたらすであろうと神かけて信じているからです。堺は非常に大きな港で、
沢山の商人と金持ちがいる町です。日本の他の地方よりも銀か金が沢山ありますので、
この堺に商館を設けたらよいと思います」(書簡集第93)
「それで神父を乗せて来る船は胡椒をあまり積み込まないで、多くても80バレルまでにしなさい。なぜなら、
前に述ぺたように、堺の港についた時、持ってきたのが少なけれぱ、日本でたいへんよく売れ、
うんと金儲けが出来るからです」(書簡集第9)。
ザビエルはポルトガル系の改宗ユダヤ人(マラーノ)だけあって、金儲けには抜け目ない様子が、手紙を通じても
窺われます。ザビエル渡来の三年後、ルイス・デ・アルメイダが長崎に上陸しました。この人も改宗ユダヤ人で、
ポルトガルを飛ぴ出してから世界を股にかけ、仲介貿易で巨額の富を築き上げましたが、
なぜか日本に来てイエズス会の神父となりました。彼はその財産をもって宣教師たちの生活を支え、
育児院を建て、キリシタン大名の大友宗瞬に医薬品を与え、大分に病院を建てました。
(2)奴隷売買
しかし、アルメイダが行ったのは、善事ばかりではなく、悪事もありました。それは奴隷売買を仲介したことです。続
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