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Re: 日本敗戦直後の朝鮮 2

投稿者: superdreadnote 投稿日時: 2007/01/08 23:00 投稿番号: [45379 / 230347]
  (終戦)
  昭和20年8月15日、太平洋戦争が終戦になった。詔勅があったようですが、全然聞こえなかった。聞き取れなかった。
  それ以前にもう戦争は負け戦だとわかっていたせいですか、朝鮮半島には空襲はなく穏やかでした。
  なんとなく終戦になったようでした。京城100万の都市はざわめきがありましたが、動乱はなく穏やかでした。

  (8月中)
私は学校が夏休みでしたので、7月の下旬から8月の上旬にかけて北朝鮮の鴨緑江まで発電所や生産工場の見学をして、帰宅しており、父は野田醤油(現キッコーマン)の京城工場の会計業務を担当しておりましたので、終戦処理に多忙のようでした。
  自宅が工場の隣の社宅であったこともあって毎日明日からどうなることやら心配する日々でした。

  (9月)
  *   9月の上旬でしたか、海軍の予科練に内地に行っていた弟二人が、大きなリュックを担いでひょっこり帰ってきました。内地のどこにいたのかはっきりしませんが、内地から関釜連絡船と列車を乗り継いではるばる渡鮮して帰ってきました。
  うれしくなって家族(父母、私、予科練の弟二人、弟二人=7人)7人の大世帯に戻りました。
  *   毎日何もすることがありませんが、毎日の生活のためになんとかしなければならなくなりました。
  *   弟たちは毎日家財道具を持ち出して、町に出て売り歩き、生活費を稼ぎ出しました。
  *     私は今後在鮮の日本人はどう処遇されるのか、について情報を集めに市の中心に走りました。情報を集約してガリ版にすって、近隣の在鮮日本人に手渡しする仕事に明け暮れました。
  *   8月の20〜25日、米軍のリッジウエイ中将が、京城に進駐してこられました。
  *   朝鮮半島が38度線で北はロシア?、南は米国が統治することがわかってきました。
  *   満州方面から日本軍人や家族が野を越え、山を越えて無一物で続々京城の町にたどり着いていました。私たち在京城日本人はこれらの人々に物資の供給に当たりました。(どうせ私たちの財産は内地に持ち帰れないことがわかってきましたので当然のことです。)

  (10月)
  *   いよいよ内地に引揚げが始まることがわかってきました。
  *   全財産は持ち帰れないことがわかり、1000円/人、リュック1個/人で引揚げることになりました。
  *   父、母が一生を通して朝鮮で築いた財産を、みんな残して引揚げることに胸が締め付けられる思いでした。
  *   しかし、戦争で命をささげた方々、空襲で家と家財を消失した方々、その他会社や工場、店舗を失った方々等のことを考えますと、命からがらの引揚げは戦争に負けたことで、それどころではありませんでした。

  (引揚げの際、私は)
  *   京城の10月は寒風吹きすさび始め、内地より一ヶ月早く寒さが来るようでした。

http://www5f.biglobe.ne.jp/^takatoshi/038.htm

run_run72さんに感謝
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