武烈天皇
投稿者: kim_taek_yoo 投稿日時: 2006/12/24 20:49 投稿番号: [44042 / 230347]
25代武烈天皇(499〜507年)は、中国で言えば酒池肉林の暴虐の限りを尽くした殷の紂王のような人で、妊婦の腹を裂いて胎児を見たり、ため池の樋に人を流して人が出てくるところを三叉の鉾で突き刺して歓声を上げたり、酷刑はすべて自分も見なければ気が済まなかったなど、変質者的な人であったようだ。
もっとひどいこともやっており、戦前戦中にわたって、日本の国史教科書からは、これら悪逆の行為はきれいに削除されていたそうだ。また日本書紀では、武烈天皇の崩御で皇統の血縁者が絶えそうになったという記述がある。
武烈天皇の次が、継体天皇(507〜531年)。継体天皇は、次のように特色の多い天皇である。
1.出自が福井県武生市付近の日本海側ではないかという伝承があること。
2.在位期間中に3回も遷都を繰り返していること(北河内→大原野→木津川流域→三輪山の麓)。
3.朝鮮に出兵しようとした矢先に九州で叛乱(磐井の乱)が勃発し、平定に苦労したこと。
など、波瀾万丈の治世である。古代史好きの人にとっては、邪馬台国がどこにあるかということにも関係あるそうなので、継体天皇は関心の高いところ。
この後の安閑天皇(534〜535)、宣化天皇(535〜539)と在位の短い天皇が続く。安閑天皇、宣化天皇とも、継体天皇の王子であり、百済本紀に、531年に日本の天皇および太子が共に亡くなったと伝え聞くという記事があり、日本書紀では、531〜534年まで天皇は空位となっていることから、531年に、実は継体、安閑、宣化ともに亡くなったと推理する人もいる。
これほどに混乱した時代であった最中に仏教が伝来している。すなわち継体天皇崩御の7年後の538年、百済の聖明王の使いで訪れた使者が、欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上したのである。
時代の雰囲気は、武烈のような人が出る時代だから、今のように文化は爛熟し切って、人の徳は地に落ちてしまった時代なのだろう。こうした時に外から新たな文化の息吹が吹き込まれて清新の風を起こすということはあるものである。それが仏教伝来ではなかったのだろうか。
古神道はもともとあり、おそらくは古神道のリードするシャーマニズム的な宗教形態では、政治の暴走を押さえることができなかったという反省もあり、そうした意味での政教一致の根幹としての仏教への期待度は高かったのではないだろうか。それが、奈良時代、平安時代と続く、官主導の神仏習合の動きを支えて行ったのではないかと考えられる。
ただ手放しの歓迎一色で、仏教を迎え入れたわけではなく、仏教特有の厭世的な人生観、世界観のデメリットというものは、古神道とは異質のものであるから、当時の為政者はその点を慎重に考慮していたのは間違いないと思う。それが、仏教伝来周辺の時代のゴタゴタというものにシンクロしているように感じる。
もっとひどいこともやっており、戦前戦中にわたって、日本の国史教科書からは、これら悪逆の行為はきれいに削除されていたそうだ。また日本書紀では、武烈天皇の崩御で皇統の血縁者が絶えそうになったという記述がある。
武烈天皇の次が、継体天皇(507〜531年)。継体天皇は、次のように特色の多い天皇である。
1.出自が福井県武生市付近の日本海側ではないかという伝承があること。
2.在位期間中に3回も遷都を繰り返していること(北河内→大原野→木津川流域→三輪山の麓)。
3.朝鮮に出兵しようとした矢先に九州で叛乱(磐井の乱)が勃発し、平定に苦労したこと。
など、波瀾万丈の治世である。古代史好きの人にとっては、邪馬台国がどこにあるかということにも関係あるそうなので、継体天皇は関心の高いところ。
この後の安閑天皇(534〜535)、宣化天皇(535〜539)と在位の短い天皇が続く。安閑天皇、宣化天皇とも、継体天皇の王子であり、百済本紀に、531年に日本の天皇および太子が共に亡くなったと伝え聞くという記事があり、日本書紀では、531〜534年まで天皇は空位となっていることから、531年に、実は継体、安閑、宣化ともに亡くなったと推理する人もいる。
これほどに混乱した時代であった最中に仏教が伝来している。すなわち継体天皇崩御の7年後の538年、百済の聖明王の使いで訪れた使者が、欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上したのである。
時代の雰囲気は、武烈のような人が出る時代だから、今のように文化は爛熟し切って、人の徳は地に落ちてしまった時代なのだろう。こうした時に外から新たな文化の息吹が吹き込まれて清新の風を起こすということはあるものである。それが仏教伝来ではなかったのだろうか。
古神道はもともとあり、おそらくは古神道のリードするシャーマニズム的な宗教形態では、政治の暴走を押さえることができなかったという反省もあり、そうした意味での政教一致の根幹としての仏教への期待度は高かったのではないだろうか。それが、奈良時代、平安時代と続く、官主導の神仏習合の動きを支えて行ったのではないかと考えられる。
ただ手放しの歓迎一色で、仏教を迎え入れたわけではなく、仏教特有の厭世的な人生観、世界観のデメリットというものは、古神道とは異質のものであるから、当時の為政者はその点を慎重に考慮していたのは間違いないと思う。それが、仏教伝来周辺の時代のゴタゴタというものにシンクロしているように感じる。
これは メッセージ 1 (the_rich_and_smooth さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/ffckdca4h4z9qa4n5doc0a4n9adbel_1/44042.html