台湾人の軍人について(訂正)
投稿者: run_run72 投稿日時: 2006/12/20 13:42 投稿番号: [43773 / 230347]
>>台湾人は、日本軍の士官になる事も出来なかった。
>間違いと思う。 40年ぐらい前に、元帝国陸海軍の台湾人元(下級)士官に何人も会って話を聞いたことがある。 士官でないかも知れないが、李登輝氏も見習士官だったはず。
ご指摘ありがとうございます。
コピペの内容に誤りがありました。
当初、日本統治下で、台湾人は士官になることはできなかったようですが、
昭和17年4月以降、台湾人も軍人になれるようになった、とのことです。
そういえば、私も、李登輝さんの兄上が、フィリピンで戦死された、
と聞いたことがあります。
また、コピペで申し訳ありませんが、
そのあたりの事情が掲載されておりますので、
ご参照下さい。
先の大戦で亡くなられた台湾出身の軍人の方、兵隊の方、
そのご遺族の方、従軍された台湾の方に、お詫び申し上げますとともに、
感謝を致します。
そして、トピ参加者の方にお詫び申し上げます m(_ _)m
また、早速、ご訂正下さいましたmayさん、ありがとうございました。
http://www.eireinikotaerukai.net/E05Iken/E05P0030.html
日本統治下では、台湾人は軍属、軍夫以外、兵隊になる資格はなかったが、戦況が激しくなった昭和十七年四月から兵員補充のため、「台湾特別志願兵令」が発せられ、台湾人としては、兵隊になれるという魅力に、第一期陸軍志願兵募集選考には四十二万五千九百六十一名 (418倍)が応募し、難関の四科目(作文、国語、算数、国史)の筆記試験にパスした一千名であった。 翌十八年には千八名の募集に対して 志願者は六十万一千百四十七名(596倍)、昭和十九年には海軍志願者の募集も始まり、陸軍は従来の倍以上の二千四百九十七名を募集し、 その上、翌年から徴兵制が実施され、競争率は161倍に落ち込んだものの志願者は四十万人以上に上った。
昭和十九年までに、陸軍は四千二百名、海軍は一万二千名を採用、その後、最初の徴兵検査は昭和二○年一月に行われ、二万三千名が 四月に入営した。 中でも高砂義勇隊は大東亜戦争に際して、得意のジャングル戦で活躍した。
終戦までに、台湾人元日本軍人は八万四百三十三名、軍夫を含む軍属は十二万六千七百五十名である。そのうち殉職・戦死者は三万三百余柱であるが、戦死が確認された二万七千八百余柱の方々が靖国神社に護国の神として祀られている。
(3)李登輝氏と兄李登欽
略…李登輝氏はその次男として大正十二年(一九二三年)一月十六日、日本統治下の台北県三芝郷埔坪村で生まれ、客家に属し、日本名を「岩里政男」 といい、淡水中学四修で台北高校を経て京都帝大農学部農業経済学科へと進学した。
しかし、戦時体制下にあるため在学中に学徒兵として習志野陸軍予備士官学校(十一期生)に入校(司馬遼太郎氏と同期)、同年末、陸軍少尉 に任官した。
一方、兄の李登欽(日本名:岩里武則)氏は大正十年(一九二一年)二月十九日に李金龍(日本名:岩里龍男)の長男として生まれ、淡水中學卒業後、 父の跡を継ぎ地元警察に勤務していたが、昭和十八年十月、海軍特別志願兵制度発足により時流に従い、昭和十八年十月、高雄・左営の 『台湾総督府海軍兵志願者訓練所』第一期生一千人の一人として高倍率をパスし入所。六ヶ月後に海軍兵志願資格を獲得し、昭和十九年四月、 『左営海兵団(陸戦隊)』に入営した。その頃のことを李登輝氏は「私が学徒兵として台湾の高雄高射砲部隊に配属になった一九四四年に、 兄は左営の海軍基地に初年兵として配属されていたので、二人で会って写真を何枚も撮ったのが最後になりました」と述懐されている。
三ヶ月の新兵教育を経て海軍二等機関兵に任命された。同年七月、南洋諸島の第三十二特別根拠地隊配属となり高雄港からルソン島に 向かった。 昭和二十年二月十五日、ルソン島マニラ市のマニラ湾において停泊中の戦艦が米軍機の攻撃を受け、兄李登欽(日本名:岩里武則)氏は二十四歳の若さで戦死した。
>間違いと思う。 40年ぐらい前に、元帝国陸海軍の台湾人元(下級)士官に何人も会って話を聞いたことがある。 士官でないかも知れないが、李登輝氏も見習士官だったはず。
ご指摘ありがとうございます。
コピペの内容に誤りがありました。
当初、日本統治下で、台湾人は士官になることはできなかったようですが、
昭和17年4月以降、台湾人も軍人になれるようになった、とのことです。
そういえば、私も、李登輝さんの兄上が、フィリピンで戦死された、
と聞いたことがあります。
また、コピペで申し訳ありませんが、
そのあたりの事情が掲載されておりますので、
ご参照下さい。
先の大戦で亡くなられた台湾出身の軍人の方、兵隊の方、
そのご遺族の方、従軍された台湾の方に、お詫び申し上げますとともに、
感謝を致します。
そして、トピ参加者の方にお詫び申し上げます m(_ _)m
また、早速、ご訂正下さいましたmayさん、ありがとうございました。
http://www.eireinikotaerukai.net/E05Iken/E05P0030.html
日本統治下では、台湾人は軍属、軍夫以外、兵隊になる資格はなかったが、戦況が激しくなった昭和十七年四月から兵員補充のため、「台湾特別志願兵令」が発せられ、台湾人としては、兵隊になれるという魅力に、第一期陸軍志願兵募集選考には四十二万五千九百六十一名 (418倍)が応募し、難関の四科目(作文、国語、算数、国史)の筆記試験にパスした一千名であった。 翌十八年には千八名の募集に対して 志願者は六十万一千百四十七名(596倍)、昭和十九年には海軍志願者の募集も始まり、陸軍は従来の倍以上の二千四百九十七名を募集し、 その上、翌年から徴兵制が実施され、競争率は161倍に落ち込んだものの志願者は四十万人以上に上った。
昭和十九年までに、陸軍は四千二百名、海軍は一万二千名を採用、その後、最初の徴兵検査は昭和二○年一月に行われ、二万三千名が 四月に入営した。 中でも高砂義勇隊は大東亜戦争に際して、得意のジャングル戦で活躍した。
終戦までに、台湾人元日本軍人は八万四百三十三名、軍夫を含む軍属は十二万六千七百五十名である。そのうち殉職・戦死者は三万三百余柱であるが、戦死が確認された二万七千八百余柱の方々が靖国神社に護国の神として祀られている。
(3)李登輝氏と兄李登欽
略…李登輝氏はその次男として大正十二年(一九二三年)一月十六日、日本統治下の台北県三芝郷埔坪村で生まれ、客家に属し、日本名を「岩里政男」 といい、淡水中学四修で台北高校を経て京都帝大農学部農業経済学科へと進学した。
しかし、戦時体制下にあるため在学中に学徒兵として習志野陸軍予備士官学校(十一期生)に入校(司馬遼太郎氏と同期)、同年末、陸軍少尉 に任官した。
一方、兄の李登欽(日本名:岩里武則)氏は大正十年(一九二一年)二月十九日に李金龍(日本名:岩里龍男)の長男として生まれ、淡水中學卒業後、 父の跡を継ぎ地元警察に勤務していたが、昭和十八年十月、海軍特別志願兵制度発足により時流に従い、昭和十八年十月、高雄・左営の 『台湾総督府海軍兵志願者訓練所』第一期生一千人の一人として高倍率をパスし入所。六ヶ月後に海軍兵志願資格を獲得し、昭和十九年四月、 『左営海兵団(陸戦隊)』に入営した。その頃のことを李登輝氏は「私が学徒兵として台湾の高雄高射砲部隊に配属になった一九四四年に、 兄は左営の海軍基地に初年兵として配属されていたので、二人で会って写真を何枚も撮ったのが最後になりました」と述懐されている。
三ヶ月の新兵教育を経て海軍二等機関兵に任命された。同年七月、南洋諸島の第三十二特別根拠地隊配属となり高雄港からルソン島に 向かった。 昭和二十年二月十五日、ルソン島マニラ市のマニラ湾において停泊中の戦艦が米軍機の攻撃を受け、兄李登欽(日本名:岩里武則)氏は二十四歳の若さで戦死した。
これは メッセージ 43768 (picfujiwara2000 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/ffckdca4h4z9qa4n5doc0a4n9adbel_1/43773.html