Re: 日本は差別国家
投稿者: kim_taek_joo 投稿日時: 2006/12/13 08:23 投稿番号: [43482 / 230347]
朝鮮総督府
「国権が奪われた後、植民統治の中枢機関として朝鮮総督府が設置され、韓民族に対する政治的弾圧と経済的搾取は日帝の意のままとなっだ。日本軍の現役大将が朝鮮総督として任命され、植民統治の全権を掌握した。すなわち朝鮮総督は立法、行政、司法および軍隊の統師権を執行することができる権限を有していたのである。このように非常に広範な権限が総督に付与されたのは、韓民族の独立運動を徹底的に弾圧することにその目的があったためである。
朝鮮総督府の官吏はほとんどが日本人によって占められた。そしてその諮問機関として中枢院を設け韓国人も政治に参与させる形式をとったが、これは韓国人を懐柔するための術策でしかなかった。三・一運動の時までほぼ一○年間、一度も正式の会議が召集されなかったことをみても、それが名ばかりの機関であったことを知ることができる。」
憲兵警察統治
「国権が強奪され、わが国に歩兵二個師団の日本軍と数多くの憲兵および憲兵補助員が配置され、強力な憲兵警察統治が始まった。
日帝の憲兵警察統治は世界に類例のない植民統治政策であった。日本人憲兵司令官が中央の警務総長となり、各道の憲兵隊長がその道の警務部長となった。随所に憲兵警察が配置され、武力でわが民族の生存まで脅かした。
憲兵警察の主要業務は警察の業務を代行すること以外に、独立運動家を探索し処断することにあった。一般官吏から学校の教員に至るまで制服を者せ、サーベルを帯刀させたことも、威圧的な憲兵警察統治の一手段であった。
このような日帝の植民地統治機構によって、言論、集会、出版、結社の自由を剥奪され、民族の指導者は逮捕、投獄、虐殺された。その結果、救国運動をし投獄された人士は数万人に達した時もあった。
日帝はいわゆる一○五人事件やさまざまな独立運動の結社に関連した独立の志士を逮捕、拷問し、独立運動の抹殺をはかった。」
植民地支配体制の変化
「わが民族は日帝の苛酷な植民統治に抵抗して、挙族的な三・一運動をおこした。しかし日帝の残忍非道な武力弾圧によって一時的に挫折を余儀なくされた。
韓民族の団結力と国際世論に直面した日帝は、植民地政策の新しい方向を模索せざるをえなくなった。
日帝はそれまで現役軍人を朝鮮総督に任命し、派遣していたが、文官でも任命することができるようにし、憲兵警察制を普通警察制に転換した。
しかしこのような植民政策の転換は、韓民族を欺瞞し苛酷な植民統治を隠蔽するための、より狡猾な統治方式であった。わが国から日帝が放逐されるまでの間、文官の総督は一人も任命されず、また、普通警察制度への移行というのも憲兵警察の制服を着せ替えただけにすぎなかった。むしろ警察官の数と装備、そして維持費は三・一運動前よりはるかに増加していたのである。
また、このときから『朝鮮日報』と『束亜日報』などの民族新間の発行が許された。同時に教育の機会を拡大するという、いわゆる文化統治が打ち出されたが、それも欺瞞政策の表面的なスローガンでしかなかった。実際には少数の親日分子をつくりだし、わが民族を離間、分裂させ、民族の近代意識の成長を誤導し、最も初歩的な学問と技術だけを許容して日帝の植民地支配に役立つ人問を養成するためのものであった。」
民族抹殺統治
「一九二○年代後半、世界を襲った経済恐慌の難局を打開するために、日本の本土と植民地をひとつにまとめる経済ブロックが形成され、韓半島の労働力と資源は日帝によって徹底的に収奪されていった。朝鮮電気事業法規調査委員会や朝鮮窒素肥料工場の設立は、このような搾取のための基礎的な投資であった。
日帝は満州を占領し(一九三一)、さらに中日戦争をしかけて(一九三七)、大陸侵略を強行し、韓半島を大陸侵略の兵站基地にしようとした。太平洋戦争が始まり総動員令が下されると、わが民族は日帝からより苛酷な人的、物的収奪を受けた。この時期にわが民族は日帝による民族抹殺統治を受けるようになった。
日帝の内鮮一体、日鮮同祖論、皇国臣民のような荒唐無稽なスローガンの下で、民族の言葉と歴史を学ぶことが禁じられ、皇国臣民の誓詞暗謡、宮城遥拝、正午黙祷など絶対服従を強いられ、そのうえ名前までも日本式に変えるよう強制された。
また、わが民族は戦争に必要な食糧と各種物資を収奪され、青年は志願兵という名目で、あるいは徴兵制や徴用制によって日本、中国、サハリン、インドシナなどへ強制動員されて命を失った。女牲までもが挺身隊という名目で連行され犠牲となったのである。」
「国権が奪われた後、植民統治の中枢機関として朝鮮総督府が設置され、韓民族に対する政治的弾圧と経済的搾取は日帝の意のままとなっだ。日本軍の現役大将が朝鮮総督として任命され、植民統治の全権を掌握した。すなわち朝鮮総督は立法、行政、司法および軍隊の統師権を執行することができる権限を有していたのである。このように非常に広範な権限が総督に付与されたのは、韓民族の独立運動を徹底的に弾圧することにその目的があったためである。
朝鮮総督府の官吏はほとんどが日本人によって占められた。そしてその諮問機関として中枢院を設け韓国人も政治に参与させる形式をとったが、これは韓国人を懐柔するための術策でしかなかった。三・一運動の時までほぼ一○年間、一度も正式の会議が召集されなかったことをみても、それが名ばかりの機関であったことを知ることができる。」
憲兵警察統治
「国権が強奪され、わが国に歩兵二個師団の日本軍と数多くの憲兵および憲兵補助員が配置され、強力な憲兵警察統治が始まった。
日帝の憲兵警察統治は世界に類例のない植民統治政策であった。日本人憲兵司令官が中央の警務総長となり、各道の憲兵隊長がその道の警務部長となった。随所に憲兵警察が配置され、武力でわが民族の生存まで脅かした。
憲兵警察の主要業務は警察の業務を代行すること以外に、独立運動家を探索し処断することにあった。一般官吏から学校の教員に至るまで制服を者せ、サーベルを帯刀させたことも、威圧的な憲兵警察統治の一手段であった。
このような日帝の植民地統治機構によって、言論、集会、出版、結社の自由を剥奪され、民族の指導者は逮捕、投獄、虐殺された。その結果、救国運動をし投獄された人士は数万人に達した時もあった。
日帝はいわゆる一○五人事件やさまざまな独立運動の結社に関連した独立の志士を逮捕、拷問し、独立運動の抹殺をはかった。」
植民地支配体制の変化
「わが民族は日帝の苛酷な植民統治に抵抗して、挙族的な三・一運動をおこした。しかし日帝の残忍非道な武力弾圧によって一時的に挫折を余儀なくされた。
韓民族の団結力と国際世論に直面した日帝は、植民地政策の新しい方向を模索せざるをえなくなった。
日帝はそれまで現役軍人を朝鮮総督に任命し、派遣していたが、文官でも任命することができるようにし、憲兵警察制を普通警察制に転換した。
しかしこのような植民政策の転換は、韓民族を欺瞞し苛酷な植民統治を隠蔽するための、より狡猾な統治方式であった。わが国から日帝が放逐されるまでの間、文官の総督は一人も任命されず、また、普通警察制度への移行というのも憲兵警察の制服を着せ替えただけにすぎなかった。むしろ警察官の数と装備、そして維持費は三・一運動前よりはるかに増加していたのである。
また、このときから『朝鮮日報』と『束亜日報』などの民族新間の発行が許された。同時に教育の機会を拡大するという、いわゆる文化統治が打ち出されたが、それも欺瞞政策の表面的なスローガンでしかなかった。実際には少数の親日分子をつくりだし、わが民族を離間、分裂させ、民族の近代意識の成長を誤導し、最も初歩的な学問と技術だけを許容して日帝の植民地支配に役立つ人問を養成するためのものであった。」
民族抹殺統治
「一九二○年代後半、世界を襲った経済恐慌の難局を打開するために、日本の本土と植民地をひとつにまとめる経済ブロックが形成され、韓半島の労働力と資源は日帝によって徹底的に収奪されていった。朝鮮電気事業法規調査委員会や朝鮮窒素肥料工場の設立は、このような搾取のための基礎的な投資であった。
日帝は満州を占領し(一九三一)、さらに中日戦争をしかけて(一九三七)、大陸侵略を強行し、韓半島を大陸侵略の兵站基地にしようとした。太平洋戦争が始まり総動員令が下されると、わが民族は日帝からより苛酷な人的、物的収奪を受けた。この時期にわが民族は日帝による民族抹殺統治を受けるようになった。
日帝の内鮮一体、日鮮同祖論、皇国臣民のような荒唐無稽なスローガンの下で、民族の言葉と歴史を学ぶことが禁じられ、皇国臣民の誓詞暗謡、宮城遥拝、正午黙祷など絶対服従を強いられ、そのうえ名前までも日本式に変えるよう強制された。
また、わが民族は戦争に必要な食糧と各種物資を収奪され、青年は志願兵という名目で、あるいは徴兵制や徴用制によって日本、中国、サハリン、インドシナなどへ強制動員されて命を失った。女牲までもが挺身隊という名目で連行され犠牲となったのである。」
これは メッセージ 43473 (jamingwithed さん)への返信です.
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