日本の新聞より丁寧に安倍さんを紹介
投稿者: goddagodo345 投稿日時: 2006/09/21 21:46 投稿番号: [38231 / 230347]
なぜか、ここの所、韓国メディアの記事の中に日本を素直に評価する記事が目立って来ました。皆、彼の著書「美しい国」を読んだ上で書いてる記事だと言うことが良く分ります。今の韓国にもこうしたリーダーが欲しいんだろうなという気持ちが伝わってきます。以下は中央日報から
>「安倍の日本、強い日本」という野望…彼を作ったのは祖父だった
安倍晋三官房長官が20日、日本の執権党である自民党の第21代総裁に選出された。
安倍長官はこの日実施された総裁選挙投票で全体703票のうちの464票を得て競争候補である麻生太郎外相(136票)と谷垣禎一財務相(102票) を大差で退け、新しい総裁に当選した。安倍新総裁は26日に召集される臨時国会で首相の指名を受け、新内閣を発足させる予定だ。
日本の第90代総理に就任する安倍氏は戦後世代での初の首相であり、歴代最年少でもある。「今日の安倍氏を作ったのは隣りに住んでいた祖父、岸信介元首相だった」安倍氏を知る人々はこう言う。彼が6歳だった1960年、当時の岸首相は日米安保条約改正問題で、野党や学生、進歩陣営の激しい反対闘争行動にぶつかっていた。家の前までデモ隊が集まっては石や火を付けた新聞紙を投げこむため、外に出ることもできなかった。そのとき岸首相は孫の安倍氏に「人々がいくら反対しても正しいと信じることならあきらめてはいけない」と強調した。岸元首相は87年亡くなるまで国益最優先主義と保守イデオロギーを教えた彼の政治の先生だった。安倍氏が政権最大の課題で掲げた憲法改正は岸元首相の遺志だと言っても過言ではない。軍隊をもてないとする現行憲法を改め直すというものだ。母方の父が何度も試みて失敗した「強い日本作り」課業を孫が受け継いだのだ。
父である安倍晋太郎元外相には親和力とともに権力意志と闘争心を受け継いだ。誰も次の首相になると信じて疑わなかった安倍元外相は91年、すい臓がんで倒れ、志を果たすことができなかった。彼は病床で息子に「死ぬ覚悟をすれば叶わぬことはない」という言葉を残した。幼い時代から涙をみせない人といわれた安倍氏だったがこのときはひと晩じゅう泣いていたという。「悲しいからではなく悔しいからだった」と後日、安倍氏は話した。
今年初め、日本政界で「安倍はまだ若いから次々期が良いだろう」という意見が出ると安倍は山口県にある父の墓所を訪れた。そして記者たちに「政治家に機会はただ一度だけ、次の機会はない」と覚悟をみせた。父の不運な最後を見取ったことから決めた覚悟だった。
9年間父の秘書として政治の授業を受けてきた安倍氏は93年山口県の父の地元を受け継いで国会議員バッジをつけた。岸元首相や安倍元外相から支えてもらってきた実力者たちが政治の新人安倍氏の後見人に出た。森喜朗前首相と小泉純一郎首相が代表的な人物だ。2人とも岸元首相が作り安倍元外相が受け継いだ自民党の名門派閥清和会所属だった。安倍氏はこの派閥の「プリンス」と呼ばれた。安倍氏が官房副長官、自民党幹事長、官房長官につながるスピード出世街道を走ることができた一要素だ。
彼の最大武器は揺らがぬ所信だと周辺ではいう。貴公子のような顔つきと粋なイメージ、ソフトな話し方とは違い、彼は固い信念と執念をもつ。北朝鮮による日本人拉致問題に対する執念がその例だ。彼は父の秘書時代の88年、拉致問題に初めて関心を持つようになり、国会議員になるやいなやこの問題を掘り下げた。大部分の政治家が「まさかそんなことが…」「証拠もないのに」と半信半疑な人も多く、北朝鮮との関係改善が妨害されるということで、問題を避けた時期だった。
しかし彼は「国民の生命と安全を守るのが政治家の第一責務」とし国会で質疑を繰り返して直接救命運動に出た。誰も認めなかったが彼の努力は途切れず続いた。安倍氏の意は10年ぶりに実を結んだ。2002年、小泉首相の訪朝で日本人拉致の深層が明らかになり、安倍氏は一躍次期首相1位に浮上したのだ。
外貌が与えるイメージとは違い、安倍は肝っ玉が大きい。自民党幹事長時代の2004年彼は党内改革の一環で特別な手当など廃止を推進した。これは節日や夏の休暇シーズン、所属議員に300万〜400万円ずつ現金で支給する自民党の長年の慣行だった。議員たちは「若い幹事長は者を知らないといっても知らなすぎる」と安倍の計画に反旗をあげた。彼の側近たちが党内重鎮議員に呼ばれて脅迫を受けたり怒鳴られたりすることもあった。
しかし安倍氏は断固としていた。「特別な手当問題に関する決定は幹事長の固有権限」とし、退けたのだ。安倍氏の地元下関に暮らし、彼の父親と交情が厚い作家古川薫氏は「安倍氏は幼い頃から強靭さと柔軟さを取り揃えた典型的な外柔内剛型」と話す。東京=イェ・ヨンジ\xA5
>「安倍の日本、強い日本」という野望…彼を作ったのは祖父だった
安倍晋三官房長官が20日、日本の執権党である自民党の第21代総裁に選出された。
安倍長官はこの日実施された総裁選挙投票で全体703票のうちの464票を得て競争候補である麻生太郎外相(136票)と谷垣禎一財務相(102票) を大差で退け、新しい総裁に当選した。安倍新総裁は26日に召集される臨時国会で首相の指名を受け、新内閣を発足させる予定だ。
日本の第90代総理に就任する安倍氏は戦後世代での初の首相であり、歴代最年少でもある。「今日の安倍氏を作ったのは隣りに住んでいた祖父、岸信介元首相だった」安倍氏を知る人々はこう言う。彼が6歳だった1960年、当時の岸首相は日米安保条約改正問題で、野党や学生、進歩陣営の激しい反対闘争行動にぶつかっていた。家の前までデモ隊が集まっては石や火を付けた新聞紙を投げこむため、外に出ることもできなかった。そのとき岸首相は孫の安倍氏に「人々がいくら反対しても正しいと信じることならあきらめてはいけない」と強調した。岸元首相は87年亡くなるまで国益最優先主義と保守イデオロギーを教えた彼の政治の先生だった。安倍氏が政権最大の課題で掲げた憲法改正は岸元首相の遺志だと言っても過言ではない。軍隊をもてないとする現行憲法を改め直すというものだ。母方の父が何度も試みて失敗した「強い日本作り」課業を孫が受け継いだのだ。
父である安倍晋太郎元外相には親和力とともに権力意志と闘争心を受け継いだ。誰も次の首相になると信じて疑わなかった安倍元外相は91年、すい臓がんで倒れ、志を果たすことができなかった。彼は病床で息子に「死ぬ覚悟をすれば叶わぬことはない」という言葉を残した。幼い時代から涙をみせない人といわれた安倍氏だったがこのときはひと晩じゅう泣いていたという。「悲しいからではなく悔しいからだった」と後日、安倍氏は話した。
今年初め、日本政界で「安倍はまだ若いから次々期が良いだろう」という意見が出ると安倍は山口県にある父の墓所を訪れた。そして記者たちに「政治家に機会はただ一度だけ、次の機会はない」と覚悟をみせた。父の不運な最後を見取ったことから決めた覚悟だった。
9年間父の秘書として政治の授業を受けてきた安倍氏は93年山口県の父の地元を受け継いで国会議員バッジをつけた。岸元首相や安倍元外相から支えてもらってきた実力者たちが政治の新人安倍氏の後見人に出た。森喜朗前首相と小泉純一郎首相が代表的な人物だ。2人とも岸元首相が作り安倍元外相が受け継いだ自民党の名門派閥清和会所属だった。安倍氏はこの派閥の「プリンス」と呼ばれた。安倍氏が官房副長官、自民党幹事長、官房長官につながるスピード出世街道を走ることができた一要素だ。
彼の最大武器は揺らがぬ所信だと周辺ではいう。貴公子のような顔つきと粋なイメージ、ソフトな話し方とは違い、彼は固い信念と執念をもつ。北朝鮮による日本人拉致問題に対する執念がその例だ。彼は父の秘書時代の88年、拉致問題に初めて関心を持つようになり、国会議員になるやいなやこの問題を掘り下げた。大部分の政治家が「まさかそんなことが…」「証拠もないのに」と半信半疑な人も多く、北朝鮮との関係改善が妨害されるということで、問題を避けた時期だった。
しかし彼は「国民の生命と安全を守るのが政治家の第一責務」とし国会で質疑を繰り返して直接救命運動に出た。誰も認めなかったが彼の努力は途切れず続いた。安倍氏の意は10年ぶりに実を結んだ。2002年、小泉首相の訪朝で日本人拉致の深層が明らかになり、安倍氏は一躍次期首相1位に浮上したのだ。
外貌が与えるイメージとは違い、安倍は肝っ玉が大きい。自民党幹事長時代の2004年彼は党内改革の一環で特別な手当など廃止を推進した。これは節日や夏の休暇シーズン、所属議員に300万〜400万円ずつ現金で支給する自民党の長年の慣行だった。議員たちは「若い幹事長は者を知らないといっても知らなすぎる」と安倍の計画に反旗をあげた。彼の側近たちが党内重鎮議員に呼ばれて脅迫を受けたり怒鳴られたりすることもあった。
しかし安倍氏は断固としていた。「特別な手当問題に関する決定は幹事長の固有権限」とし、退けたのだ。安倍氏の地元下関に暮らし、彼の父親と交情が厚い作家古川薫氏は「安倍氏は幼い頃から強靭さと柔軟さを取り揃えた典型的な外柔内剛型」と話す。東京=イェ・ヨンジ\xA5
これは メッセージ 1 (the_rich_and_smooth さん)への返信です.
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