なんもかも悪いのは日本
投稿者: kim_taek_joo 投稿日時: 2006/08/11 12:38 投稿番号: [35253 / 230347]
Ⅶ-1-(1)
民族の受難
国権の被奪
「露日戦争が起きた時、大韓帝国は両国の戦争にまきこまれないよう局外中立を宜言した。しかし戦略的橋頭堡を先に占領しようとする日帝の強要によって韓日議定書が締結され、ソウルをはじめとする軍事的要所と施設が占領された。続いて第一次韓日協約が強制的に締結された(一九○四)。これによって日本人によるいわゆる顧問政治が始まった。
日帝は露日戦争に勝利した後、より露骨に植民地化政策を推進した。すなわち、日帝は露日戦争に前後してイギリス、アメリカなどの列強より韓国の独占的支配が黙認されるようになると、乙巳条約の締結を追ってきた。
高宗皇帝の拒否で条約締結に失敗した日帝は、一方的に条約成立を公表しながら、大韓帝国の外交権を剥奪し、統監府を設置して内政権をも掌握した。これに対し高宗皇帝は国内外に条約の無効を宣言し、オランダのハーグへ特使を派遣したが、日帝によって強制的に退位させられてしまった。その後大韓帝国は軍隊まで解散させられ防衛力も失った。さらに言論、集会、出版の自由も蹂躙され、司法権と警察権を奪われた後、ついには国権まで強奪された(一九一○)。」
間鳥と独島
「一九世紀後半以後、韓民族は間島地方に大挙して移住し、開拓した。しかし清国が間島開墾事業を口実に韓民族の退去を要求してきたために間島帰属問題がおこった。政府では白頭山の定界碑の土門江が松花江の上流にあることを理由に、間島がわが領土であることを主張して、間島を成鏡道の行政区域に編入し管埋していた。
しかし乙巳条約でわが国の外交権を奪った日本は、満州の安奉線の鉄道敷設権を手に入れる代価として、間島を清回の領土として認める間島協約を清国との間に締結した(一九○九〉。
また、日帝は露日戦争中に独島〔竹島〕を日本領に編入するという不法行為を行なった。」
朝鮮総督府
「国権が奪われた後、植民統治の中枢機関として朝鮮総督府が設置され、韓民族に対する政治的弾圧と経済的搾取は日帝の意のままとなっだ。日本軍の現役大将が朝鮮総督として任命され、植民統治の全権を掌握した。すなわち朝鮮総督は立法、行政、司法および軍隊の統師権を執行することができる権限を有していたのである。このように非常に広範な権限が総督に付与されたのは、韓民族の独立運動を徹底的に弾圧することにその目的があったためである。
朝鮮総督府の官吏はほとんどが日本人によって占められた。そしてその諮問機関として中枢院を設け韓国人も政治に参与させる形式をとったが、これは韓国人を懐柔するための術策でしかなかった。三・一運動の時までほぼ一○年間、一度も正式の会議が召集されなかったことをみても、それが名ばかりの機関であったことを知ることができる。」
憲兵警察統治
「国権が強奪され、わが国に歩兵二個師団の日本軍と数多くの憲兵および憲兵補助員が配置され、強力な憲兵警察統治が始まった。
日帝の憲兵警察統治は世界に類例のない植民統治政策であった。日本人憲兵司令官が中央の警務総長となり、各道の憲兵隊長がその道の警務部長となった。随所に憲兵警察が配置され、武力でわが民族の生存まで脅かした。
憲兵警察の主要業務は警察の業務を代行すること以外に、独立運動家を探索し処断することにあった。一般官吏から学校の教員に至るまで制服を者せ、サーベルを帯刀させたことも、威圧的な憲兵警察統治の一手段であった。
このような日帝の植民地統治機構によって、言論、集会、出版、結社の自由を剥奪され、民族の指導者は逮捕、投獄、虐殺された。その結果、救国運動をし投獄された人士は数万人に達した時もあった。
日帝はいわゆる一○五人事件やさまざまな独立運動の結社に関連した独立の志士を逮捕、拷問し、独立運動の抹殺をはかった。」
国権の被奪
「露日戦争が起きた時、大韓帝国は両国の戦争にまきこまれないよう局外中立を宜言した。しかし戦略的橋頭堡を先に占領しようとする日帝の強要によって韓日議定書が締結され、ソウルをはじめとする軍事的要所と施設が占領された。続いて第一次韓日協約が強制的に締結された(一九○四)。これによって日本人によるいわゆる顧問政治が始まった。
日帝は露日戦争に勝利した後、より露骨に植民地化政策を推進した。すなわち、日帝は露日戦争に前後してイギリス、アメリカなどの列強より韓国の独占的支配が黙認されるようになると、乙巳条約の締結を追ってきた。
高宗皇帝の拒否で条約締結に失敗した日帝は、一方的に条約成立を公表しながら、大韓帝国の外交権を剥奪し、統監府を設置して内政権をも掌握した。これに対し高宗皇帝は国内外に条約の無効を宣言し、オランダのハーグへ特使を派遣したが、日帝によって強制的に退位させられてしまった。その後大韓帝国は軍隊まで解散させられ防衛力も失った。さらに言論、集会、出版の自由も蹂躙され、司法権と警察権を奪われた後、ついには国権まで強奪された(一九一○)。」
間鳥と独島
「一九世紀後半以後、韓民族は間島地方に大挙して移住し、開拓した。しかし清国が間島開墾事業を口実に韓民族の退去を要求してきたために間島帰属問題がおこった。政府では白頭山の定界碑の土門江が松花江の上流にあることを理由に、間島がわが領土であることを主張して、間島を成鏡道の行政区域に編入し管埋していた。
しかし乙巳条約でわが国の外交権を奪った日本は、満州の安奉線の鉄道敷設権を手に入れる代価として、間島を清回の領土として認める間島協約を清国との間に締結した(一九○九〉。
また、日帝は露日戦争中に独島〔竹島〕を日本領に編入するという不法行為を行なった。」
朝鮮総督府
「国権が奪われた後、植民統治の中枢機関として朝鮮総督府が設置され、韓民族に対する政治的弾圧と経済的搾取は日帝の意のままとなっだ。日本軍の現役大将が朝鮮総督として任命され、植民統治の全権を掌握した。すなわち朝鮮総督は立法、行政、司法および軍隊の統師権を執行することができる権限を有していたのである。このように非常に広範な権限が総督に付与されたのは、韓民族の独立運動を徹底的に弾圧することにその目的があったためである。
朝鮮総督府の官吏はほとんどが日本人によって占められた。そしてその諮問機関として中枢院を設け韓国人も政治に参与させる形式をとったが、これは韓国人を懐柔するための術策でしかなかった。三・一運動の時までほぼ一○年間、一度も正式の会議が召集されなかったことをみても、それが名ばかりの機関であったことを知ることができる。」
憲兵警察統治
「国権が強奪され、わが国に歩兵二個師団の日本軍と数多くの憲兵および憲兵補助員が配置され、強力な憲兵警察統治が始まった。
日帝の憲兵警察統治は世界に類例のない植民統治政策であった。日本人憲兵司令官が中央の警務総長となり、各道の憲兵隊長がその道の警務部長となった。随所に憲兵警察が配置され、武力でわが民族の生存まで脅かした。
憲兵警察の主要業務は警察の業務を代行すること以外に、独立運動家を探索し処断することにあった。一般官吏から学校の教員に至るまで制服を者せ、サーベルを帯刀させたことも、威圧的な憲兵警察統治の一手段であった。
このような日帝の植民地統治機構によって、言論、集会、出版、結社の自由を剥奪され、民族の指導者は逮捕、投獄、虐殺された。その結果、救国運動をし投獄された人士は数万人に達した時もあった。
日帝はいわゆる一○五人事件やさまざまな独立運動の結社に関連した独立の志士を逮捕、拷問し、独立運動の抹殺をはかった。」
これは メッセージ 1 (the_rich_and_smooth さん)への返信です.
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