おちつきました
投稿者: sadatajp 投稿日時: 2002/12/06 21:41 投稿番号: [2746 / 230347]
改めて考えてみると「議論が出来ない」は議題としては曖昧すぎました。
曖昧ではあるけど、こういう悪口の中にこそ議論すべき問題点があると思ってます。
歴史の問題にしろ反日教育にしろ、やってる人の考え方が現れたものだと考えます。
捕らえ辛い問題ですが、この人の考え方の部分を私は問題にしたいと思ってます。
「議論が出来ない」に含まれる「相手の話を聞かない」は特に問題だと思います。
本当に話を聞いてもらえないのであれば、議論は成り立ちません。
歴史の問題にしても何にしても、いくらその間違いを指摘しても
聞いてもらえないのでは意味がありません。
韓国人以外に自分達の正しさを主張するという意味では意義はありますが、
韓国人に対しては意味がありません。
「議論が出来ない」は誤解かもしれないし、事実かもしれません。
本当のところはどうなのかわからないけれど、多くの人がそう感じてます。
そう思われるようなことがあるのは事実です。
何が原因で議論が出来ないと思われるのかは、考えてみる必要があると思います。
----------
韓国人には日本人から見て悪いと感じられるところが多々あります。
もしかしたら、日本人の視点でみるからそう思えるのかなとも考えます。
彼らに言い分があるなら聞きたいし、韓国の社会においては
彼らのやり方こそが正義だと言うならその理由を聞きたい。
聞いてもっともだと思えるなら、悪いと思ってた部分の認識は改まります。
それが彼らなのだと受け止められるのではと考えてます。
それこそ異文化として受け止める必要があるとも思います。
その上で、どういう付き合い方がいいのかを考える必要があると思います。
彼らの正義と我々の正義が、どうにも相反するものであるなら、
それなりの対応を取らなければならなくなります。
今度は、それなりの対応がどういうものになるか考えることになります。
実際はそうでないのに、何か原因があってそう思えるだけなのかもしれません。
「議論が出来ない」で言うなら言葉の問題かもしれません。
多勢に無勢な所為かもしれません。
原因があってのことなら、それに配慮することで議論が出来るようになるはずです。
原因がハッキリしたなら「議論が出来ない」という誤解は解けます。
誤解される原因があるのならそれを探るべきだと考えます。
日本人の視点で見るから悪く見えるのでなく、事実悪いのだとしたら
その悪い部分が直ることを期待したい。
それが何故悪いのか、それだと何故いけないのかを話して自覚を促したい。
自分の方が間違ってるのかもしれない。
しかし、かもしれないで口を噤んでは何も変わらない。
自覚を促すには、相手の悪いと思う部分を指摘しなければならない。
返り討ちに合えば、逆に自分の間違いが自覚出来る。それはそれで有意義。
指摘は批難と紙一重。あるいは捕らえられ方で変わるだけで同じものかもしれない。
相手の気持ちばかり考えて、批難を自制することがいいことだとは思わない。
相手に聞いてもらえるような言い方を考える必要はもちろんある。
どういう伝え方がいいのかは私もわからない。
今の私は明らかに未熟なのだろうけど、ともかく試行錯誤でやってくしかない。
黙ってしまうよりはマシ。これが私のここでのスタンス。
毎回長くてすみません。
曖昧ではあるけど、こういう悪口の中にこそ議論すべき問題点があると思ってます。
歴史の問題にしろ反日教育にしろ、やってる人の考え方が現れたものだと考えます。
捕らえ辛い問題ですが、この人の考え方の部分を私は問題にしたいと思ってます。
「議論が出来ない」に含まれる「相手の話を聞かない」は特に問題だと思います。
本当に話を聞いてもらえないのであれば、議論は成り立ちません。
歴史の問題にしても何にしても、いくらその間違いを指摘しても
聞いてもらえないのでは意味がありません。
韓国人以外に自分達の正しさを主張するという意味では意義はありますが、
韓国人に対しては意味がありません。
「議論が出来ない」は誤解かもしれないし、事実かもしれません。
本当のところはどうなのかわからないけれど、多くの人がそう感じてます。
そう思われるようなことがあるのは事実です。
何が原因で議論が出来ないと思われるのかは、考えてみる必要があると思います。
----------
韓国人には日本人から見て悪いと感じられるところが多々あります。
もしかしたら、日本人の視点でみるからそう思えるのかなとも考えます。
彼らに言い分があるなら聞きたいし、韓国の社会においては
彼らのやり方こそが正義だと言うならその理由を聞きたい。
聞いてもっともだと思えるなら、悪いと思ってた部分の認識は改まります。
それが彼らなのだと受け止められるのではと考えてます。
それこそ異文化として受け止める必要があるとも思います。
その上で、どういう付き合い方がいいのかを考える必要があると思います。
彼らの正義と我々の正義が、どうにも相反するものであるなら、
それなりの対応を取らなければならなくなります。
今度は、それなりの対応がどういうものになるか考えることになります。
実際はそうでないのに、何か原因があってそう思えるだけなのかもしれません。
「議論が出来ない」で言うなら言葉の問題かもしれません。
多勢に無勢な所為かもしれません。
原因があってのことなら、それに配慮することで議論が出来るようになるはずです。
原因がハッキリしたなら「議論が出来ない」という誤解は解けます。
誤解される原因があるのならそれを探るべきだと考えます。
日本人の視点で見るから悪く見えるのでなく、事実悪いのだとしたら
その悪い部分が直ることを期待したい。
それが何故悪いのか、それだと何故いけないのかを話して自覚を促したい。
自分の方が間違ってるのかもしれない。
しかし、かもしれないで口を噤んでは何も変わらない。
自覚を促すには、相手の悪いと思う部分を指摘しなければならない。
返り討ちに合えば、逆に自分の間違いが自覚出来る。それはそれで有意義。
指摘は批難と紙一重。あるいは捕らえられ方で変わるだけで同じものかもしれない。
相手の気持ちばかり考えて、批難を自制することがいいことだとは思わない。
相手に聞いてもらえるような言い方を考える必要はもちろんある。
どういう伝え方がいいのかは私もわからない。
今の私は明らかに未熟なのだろうけど、ともかく試行錯誤でやってくしかない。
黙ってしまうよりはマシ。これが私のここでのスタンス。
毎回長くてすみません。
これは メッセージ 2741 (to_be_continued_007 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/ffckdca4h4z9qa4n5doc0a4n9adbel_1/2746.html