京城帝国大学
投稿者: stevemillerceo 投稿日時: 2006/05/13 18:08 投稿番号: [23244 / 230347]
少し長いですが、京城帝国大学(韓国は、まったく別といっているが、ソウル大学の事実上の前身)の歴史に関する、李成奎(荷仁大)教授の論文抜粋。軍国主義時代の日本側の事情があったとはいえ、日本の併合政策が朝鮮の科学技術発展に大いに寄与したことは事実である。
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朝鮮は、日本の支配において公式的には、植民地ではなく二つの国の「合併」だった。京城帝国大学は、理念の観点から見ると、ヨーロッパの事例で見られるような植民地大学ではなかった。戦前の日本の高等教育において最も権威があった「帝国大学」をモデルにして建てられた格の高い大学だった。それは、朝鮮半島に建てられた最初の近代的な総合大学であり、唯一の日本人と朝鮮人の共学大学だった。東京大学の設立(1877年)に始まり、京都、東北、九州、北海道の次に続く6番目の日本の帝国大学だった。以後、台北、大阪、名古屋と続く。
(中略)
東京帝国大学出身者中心の、若くて有能な一流の学者を教授陣にしている。これは、植民地における朝鮮人の敬意を得るための最適の条件を京城帝大が備えていたという意味だと考えられる。(中略)
新生理工学部は、朝鮮半島を代表する科学技術教育と研究機関としての任務を遂行することになり、朝鮮半島の人々は、京城帝大理工学部を通じ、当時の最先端の科学技術に接することができた。京城帝大の理工学部は、植民地半島の科学技術の殿堂だった。
朝鮮と日本両国から大きな信頼を受けていた山家理工学部長によれば、理工学部学生に使われた一人当たりの国費は、2万円だった [12]。一方、当時米一俵が10円、日本兵の月給が7円、村役場の書記の月給20円、戦闘手当てまでつく軍属が50円だった。記念誌には、同窓生らの座談会の記録も記されており、そこに参加した人々は、口を揃え、城大理工学部が「学生一人あたりの国家経費で見ると、未来にもありえない大学」だと述べている。(中略)
戦後に、この大学はなくなった。全ての日本人の教授ら、教職員および学生らは、日本に撤収した。しかし、この大学出身の韓国人が主軸になり、京城帝国大学の消滅を、国立ソウル大学の誕生として不死鳥のように再び蘇えらせた。ソウル大学は、誕生以後、今日でも韓国ナンバーワンの大学としての名声を確固たるものにしている。京城帝国大学は、敗戦とともになくなったが、それが蒔いた種から再びソウル大学として誕生したということだ。(中略)
京城帝国大学理工学部は、この土地に設立された最初の理工系大学で…その存在意義は、実に大きかった。日本の植民地統治下で、非常に狭い関門をくぐり抜け、朝鮮人学生でありながらも、この土地で、日本本土の大学と同じ水準の理工系大学教育を受ける機会を得たのだ。…結果として、この大学で習っていた朝鮮人の在学生の数は、終戦当時、合計で92名に過ぎなかった。しかし、韓国の科学技術や産業の発展における影響と実績は、大きい。その92名は、我が国の学界と産業界において、貴重な人材として活躍した。 (中略)
教授陣は、100%日本人で、学生の数においては、日本人対朝鮮人の比率は、始終2:1 [29]だった。朝鮮人の抗議は続いたが、無為に終わった。(中略)
最近の歴史学界では、植民地近代化論が提起されている。植民地時代の朝鮮は、日本によって近代化がなされ、経済が発展したという主張だ。これは、従来の植民地についての日本帝国の搾取や抑圧だけを強調してきた伝統的な論理と相反する。この論戦は、反論に反論を重ねており新聞が大きく扱っている。落星垈経済研究所のイヨンフン所長によれば、韓国の近代的経済が発展したのは、明らかに日本帝国時代であり、合邦以前の19世紀後半、朝鮮の経済状況は「消尽状態」即ち体力を使い果たした状態であり、自から倒れたと述べる。
当時の戦争とこれに付随する朝鮮での経済発展と科学技術の発展の必要性などを考えると、朝鮮において工業と経済を立て直さなければならない理由が、明確に存在したというのが筆者の考えだ。だから、植民地時代の朝鮮では、経済的発展があり、これとともに大陸侵略の前哨基地だった植民地半島で近代的な科学技術の発展が成されたことも事実だと考える。日本帝国は、半島で「物量戦争」に勝つための軍需工業を育成する必要があり、「科学戦争」の遂行に必要な科学技術研究開発の殿堂が必要であり、半島および大陸で仕事をする科学技術を備えた人材が必要であったため、この時代的使命を城大理工学部が遂行した。
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朝鮮は、日本の支配において公式的には、植民地ではなく二つの国の「合併」だった。京城帝国大学は、理念の観点から見ると、ヨーロッパの事例で見られるような植民地大学ではなかった。戦前の日本の高等教育において最も権威があった「帝国大学」をモデルにして建てられた格の高い大学だった。それは、朝鮮半島に建てられた最初の近代的な総合大学であり、唯一の日本人と朝鮮人の共学大学だった。東京大学の設立(1877年)に始まり、京都、東北、九州、北海道の次に続く6番目の日本の帝国大学だった。以後、台北、大阪、名古屋と続く。
(中略)
東京帝国大学出身者中心の、若くて有能な一流の学者を教授陣にしている。これは、植民地における朝鮮人の敬意を得るための最適の条件を京城帝大が備えていたという意味だと考えられる。(中略)
新生理工学部は、朝鮮半島を代表する科学技術教育と研究機関としての任務を遂行することになり、朝鮮半島の人々は、京城帝大理工学部を通じ、当時の最先端の科学技術に接することができた。京城帝大の理工学部は、植民地半島の科学技術の殿堂だった。
朝鮮と日本両国から大きな信頼を受けていた山家理工学部長によれば、理工学部学生に使われた一人当たりの国費は、2万円だった [12]。一方、当時米一俵が10円、日本兵の月給が7円、村役場の書記の月給20円、戦闘手当てまでつく軍属が50円だった。記念誌には、同窓生らの座談会の記録も記されており、そこに参加した人々は、口を揃え、城大理工学部が「学生一人あたりの国家経費で見ると、未来にもありえない大学」だと述べている。(中略)
戦後に、この大学はなくなった。全ての日本人の教授ら、教職員および学生らは、日本に撤収した。しかし、この大学出身の韓国人が主軸になり、京城帝国大学の消滅を、国立ソウル大学の誕生として不死鳥のように再び蘇えらせた。ソウル大学は、誕生以後、今日でも韓国ナンバーワンの大学としての名声を確固たるものにしている。京城帝国大学は、敗戦とともになくなったが、それが蒔いた種から再びソウル大学として誕生したということだ。(中略)
京城帝国大学理工学部は、この土地に設立された最初の理工系大学で…その存在意義は、実に大きかった。日本の植民地統治下で、非常に狭い関門をくぐり抜け、朝鮮人学生でありながらも、この土地で、日本本土の大学と同じ水準の理工系大学教育を受ける機会を得たのだ。…結果として、この大学で習っていた朝鮮人の在学生の数は、終戦当時、合計で92名に過ぎなかった。しかし、韓国の科学技術や産業の発展における影響と実績は、大きい。その92名は、我が国の学界と産業界において、貴重な人材として活躍した。 (中略)
教授陣は、100%日本人で、学生の数においては、日本人対朝鮮人の比率は、始終2:1 [29]だった。朝鮮人の抗議は続いたが、無為に終わった。(中略)
最近の歴史学界では、植民地近代化論が提起されている。植民地時代の朝鮮は、日本によって近代化がなされ、経済が発展したという主張だ。これは、従来の植民地についての日本帝国の搾取や抑圧だけを強調してきた伝統的な論理と相反する。この論戦は、反論に反論を重ねており新聞が大きく扱っている。落星垈経済研究所のイヨンフン所長によれば、韓国の近代的経済が発展したのは、明らかに日本帝国時代であり、合邦以前の19世紀後半、朝鮮の経済状況は「消尽状態」即ち体力を使い果たした状態であり、自から倒れたと述べる。
当時の戦争とこれに付随する朝鮮での経済発展と科学技術の発展の必要性などを考えると、朝鮮において工業と経済を立て直さなければならない理由が、明確に存在したというのが筆者の考えだ。だから、植民地時代の朝鮮では、経済的発展があり、これとともに大陸侵略の前哨基地だった植民地半島で近代的な科学技術の発展が成されたことも事実だと考える。日本帝国は、半島で「物量戦争」に勝つための軍需工業を育成する必要があり、「科学戦争」の遂行に必要な科学技術研究開発の殿堂が必要であり、半島および大陸で仕事をする科学技術を備えた人材が必要であったため、この時代的使命を城大理工学部が遂行した。
これは メッセージ 1 (the_rich_and_smooth さん)への返信です.
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