Re: 日韓基本条約を最近知ったからな
投稿者: n_o_i_s_e_m_a_n 投稿日時: 2006/04/26 13:38 投稿番号: [21259 / 230347]
>ララ(LARA)物資を始め、膨大な援助をアメリカから受けましたが、それを有効利用して世界第二位の経済大国を造り上げたのが→『日本国』
アメリカからの物資供給は、無償援助ではなくきっちり料金を取られており、脱脂粉乳等は戦争継続を見越して過剰生産したものを日本政府に売りつけたものです。
しかし、「RALAをはじめとする支援があった」のは確かですし、日本人がそれを忘れてはならず、また、当時の日本人の態度も忘れてはなりません。
http://www.fasid.or.jp/chosa/forum/bbl/pdf/116_r.pdf
「日本は先進国で唯一世界銀行から融資を受けた国となりました。実は、30 年ローンで借りていましたが、経済大国になった時、日本は全額を一括で返還しようとしました。しかし、世界銀行の方から、「一括ではなくゆっくり返して下さい」と言ってきました。なぜかと言えば、借りたお金を着実に返す国は珍しく、日本のように借りたお金を返しつつ、かつ拠出国になっているのは世界に類を見ない、だから日本という国を他の国の模範としたいと世界銀行が考えたからです。1990 年7 月に最後の返還式をワシントンで行いました。
そのように、日本という国は、借りることは借りたが、それをしっかりと返し、さらに「世界銀行のトップレベルの拠出国になるほど貢献した模範的な国家であった」と、国際社会から見られています。
なぜこのようにいろいろな方々の支援が日本に来たのかと言いますと、当時の日本は貧しかったがモラルが高かったということがあります。
昭和21 年、LARA 物資が有効に円滑に送られるように交渉するため、日本からキリスト教団体の方々が渡米しました。そして、彼らがフィラデルフィアのある女子学院に行ったところ、ランチタイムなのに誰も昼食を取っていませんでした。そこでどうしたのかを聞いたところ、今日はランチを食べたことにして、弁当代の50 セント、25 セントを募金箱に入れて日本の子どもたちに送金する日だということでした。
どうしてこのような気持ちになったのかを聞いたところ、日本に来ていた外国の特派員が、「日本ではLARA 物資等の援助に感謝して、誰一人援助物資を横流しすることなく日本人の隅から隅まで困っている人に届いている」ということを感動的に報道したそうです。
それがきっかけになって、さらに援助しようという気運になったそうです。
日系米国人兵士で後にハワイ州知事になったジョージ有吉氏の体験談があります。昭和20 年の暮れに、有吉氏が焼け野原の東京を歩いていたところ、7 歳の少年が靴磨きをしていた。空腹そうに見えたので、有吉氏は靴磨きを終わってから兵舎に戻り、コッペパンを持ってきて少年に与えた。少年は丁重に受け取ってコッペパンを懐に入れた。「どうして今すぐに食べないのか」と少年に聞いたところ、少年は、「両親を戦争で亡くし、3 歳の妹がお腹を空かして家で待っているから、まずは妹に食べさせてやりたい」と答えた。
この言葉を聞いて、有吉氏は「日本は大丈夫だ」と思ったということです。
7 歳の子どもですら人間性を失わない日本は必ず立ち直ると、有吉氏は思ったと言います。」
アメリカからの物資供給は、無償援助ではなくきっちり料金を取られており、脱脂粉乳等は戦争継続を見越して過剰生産したものを日本政府に売りつけたものです。
しかし、「RALAをはじめとする支援があった」のは確かですし、日本人がそれを忘れてはならず、また、当時の日本人の態度も忘れてはなりません。
http://www.fasid.or.jp/chosa/forum/bbl/pdf/116_r.pdf
「日本は先進国で唯一世界銀行から融資を受けた国となりました。実は、30 年ローンで借りていましたが、経済大国になった時、日本は全額を一括で返還しようとしました。しかし、世界銀行の方から、「一括ではなくゆっくり返して下さい」と言ってきました。なぜかと言えば、借りたお金を着実に返す国は珍しく、日本のように借りたお金を返しつつ、かつ拠出国になっているのは世界に類を見ない、だから日本という国を他の国の模範としたいと世界銀行が考えたからです。1990 年7 月に最後の返還式をワシントンで行いました。
そのように、日本という国は、借りることは借りたが、それをしっかりと返し、さらに「世界銀行のトップレベルの拠出国になるほど貢献した模範的な国家であった」と、国際社会から見られています。
なぜこのようにいろいろな方々の支援が日本に来たのかと言いますと、当時の日本は貧しかったがモラルが高かったということがあります。
昭和21 年、LARA 物資が有効に円滑に送られるように交渉するため、日本からキリスト教団体の方々が渡米しました。そして、彼らがフィラデルフィアのある女子学院に行ったところ、ランチタイムなのに誰も昼食を取っていませんでした。そこでどうしたのかを聞いたところ、今日はランチを食べたことにして、弁当代の50 セント、25 セントを募金箱に入れて日本の子どもたちに送金する日だということでした。
どうしてこのような気持ちになったのかを聞いたところ、日本に来ていた外国の特派員が、「日本ではLARA 物資等の援助に感謝して、誰一人援助物資を横流しすることなく日本人の隅から隅まで困っている人に届いている」ということを感動的に報道したそうです。
それがきっかけになって、さらに援助しようという気運になったそうです。
日系米国人兵士で後にハワイ州知事になったジョージ有吉氏の体験談があります。昭和20 年の暮れに、有吉氏が焼け野原の東京を歩いていたところ、7 歳の少年が靴磨きをしていた。空腹そうに見えたので、有吉氏は靴磨きを終わってから兵舎に戻り、コッペパンを持ってきて少年に与えた。少年は丁重に受け取ってコッペパンを懐に入れた。「どうして今すぐに食べないのか」と少年に聞いたところ、少年は、「両親を戦争で亡くし、3 歳の妹がお腹を空かして家で待っているから、まずは妹に食べさせてやりたい」と答えた。
この言葉を聞いて、有吉氏は「日本は大丈夫だ」と思ったということです。
7 歳の子どもですら人間性を失わない日本は必ず立ち直ると、有吉氏は思ったと言います。」
これは メッセージ 21252 (niseyoung さん)への返信です.
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