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巡査の居る風景−2−   

投稿者: monjujz 投稿日時: 2011/08/11 20:13 投稿番号: [195440 / 230347]
  ――私は今、頗る遺憾な言葉を聞きました。併しながら、私は私達も又光栄ある日本人であることを飽く迄信じて居るものであります。
  すると忽ち場の一隅から盛な拍手が起って来たのだ。…………
  彼は今これを思い出した。そしてその候補を此の青年と比べて見た。 それからもう一度日本という国を考えて見た。朝鮮という民族を考えて見た。自分というものも考えて見た。更に、自分の職業を、それから、今そこに帰ろうとして居る妻と一人の子供のことを思い浮べた。
  事実彼の気持は近頃「何か忘れ物をした時に人が感じる」あの何処となく落ちつかない状態にあった。果されない義務の圧迫感がいつも頭の何処かに重苦しく巣くって居るといった感じでもあった。併しその重苦しい圧力が何処から来るかということに就いては、彼はそれを尋ねようとはしなかった。いや、それが恐かったのだ。自分で自分を目覚ますことが恐ろしいのだ。自分で自分を刺激することがこわかったのだ。
  では、何故怖いのだ?   何故だ?
  その答として、彼は青白い顔をした彼の妻子を挙げる。彼が自分の職業を失ったとしたら彼等はどうなるのだ、併し「なるほど、それには違いない。だが、そればかりなのか。恐怖の原因はそれだけなのか?」と聞かれたとしたら…………。
  彼は慄然として首を縮めると、あわてて硝子越に街々の揺れる灯と、其中を泳ぐ雑沓とを眺めた。夕刊の鈴。自働車の警笛。凍った、鋪道に映る明るい灯。その上を滑る毛皮の群。暗い町角に佇んだ赤鬚の担手、牛のついて居ない肥料車、塵埃車……。

  電車は昌慶苑前で下りた。
  横町では強いアセチリンの光に肺病やみの売卜者の顔が闇から浮び上った。古本屋の店先で手をぶるぶる慄わせながら、老人が声を立てて諺文を読んで居た。
  角を一つ曲がると、突然彼は向うから来た一人の男にお辞儀をされた。彼も一つ鸚鵡返しに頭を下げてから見ると猟虎の襟の外套をつけた立派な紳士だった。
  ――一寸お尋ね致しますが。――と、その人は彼に非常に丁寧な言葉で、××氏――総督府の高官――の住居を尋ねたのだ。(××氏の所へ行くなら此の人も高官かもしれない。)紳士にそんな丁寧な言葉をかけられたことのない彼は、一寸まごつきながらその××氏の住居を教えた。彼の返事をきくと一度丁寧に頭を下げて教えられた方に曲て行った…………。
  と、その時だった。彼はある一つの大発見をして愕然として了ったのだ。
  ――俺は、俺は今知らない中に嬉しくなって居はしなかったか。――と彼はぎょっとしながら自分に尋ねて見た。
  ――あの日本の紳士に丁寧な扱いを受けたことによって極く少しではあるけれども喜ばされて居たのだ。丁度子供が大人に少しでもまじめに相手にされると、すっかり喜んで了うように、俺も今無意識の中に嬉しがって居たのだ………………。もう先刻の青年も笑えなかった。府会議員の候補のことも云えなかった。
  ――これは俺一人の問題ではない。俺達の民族は昔からこんな性質を持つように歴史的に訓練されて来て居るんだ。
  ふと横を見ると男が道傍にしゃがんで小便をして居るのだ。彼は何げなく「立小便」することを知らない此の半島の人達の風習を考えて見た。
  ――此の一寸した習慣の中にも永遠に卑屈なるべき俺達の精神がひそんで居るのかも知れぬ。――彼はそんなことを、ぼんやり考えて見た。

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