Re: ●北朝鮮革命軍の工作員のJAPへ。
投稿者: japanpoors 投稿日時: 2011/05/18 22:31 投稿番号: [190458 / 230347]
古代の日本には朝鮮半島から土器製作,農工技術,土木技術,養蚕,機織り,漢字,仏教,医学などの新しい文化や技術を持って多くの人たちが渡来してきた。「渡来人」(以前は「帰化人」と記載することもあった)と呼んでいるが,実はわたしたち日本人の祖先でもある。彼らから伝えられた技術や知識によって,それまでの人々の生活が大きく変化し,また,政治の中心地である都もつくられていった。
最初の渡来人たちは,紀元前にさかのぼるが,日本(九州を中心として)に米作りや土器などを伝えた人たちと考えられる。日本書紀・古事記が伝えるところによると,応神天皇期が最初の大規模な渡来とされているが,このころ朝鮮半島では大きな動乱が起きていた。それから逃げるように日本に渡来し,製鉄の技術や鉄製の農具,灌漑(かんがい)技術などを伝えた人たちがいた。かれらがもたらした道具や技術によって,それまでの生産方法や労働形態を一変させる一大改革が起こったのではないだろうか。また,馬や馬具ももたらされ,乗馬も行われるようになった。この後続く渡来人たちによって,政治にも影響を与えるような知識や文化,技術がもたらされた。7世紀には,白村江の戦いで敗れた百済からの亡命者たちが入ってきた。かれらもそれまでの日本にはない最新の技術や文化を伝えたり,朝廷の政治に大きく関わったりした。渡来人の持ち込んだ技術や文化によって当時の日本(倭国)は高度に発展したと言える。
渡来時期を4つに区分すると・・・
Ⅰ 紀元前2〜3世紀 弥生時代に日本に定住した。
Ⅱ 5世紀前後 倭の五王が治めてた時代で,朝鮮半島からの渡来人が多い。
Ⅲ 5世紀後半〜6世紀 今来漢人(いまきのあやひと)が最新技術をもたらした。
Ⅳ 7世紀 百済・高句麗などから亡命してきた。
4・5世紀の渡来人で代表的な集団といえば秦(はた)氏と漢(あや)氏(ともに個人名ではなく,集団名・一族名を指している)である。彼ら渡来人たちは優れた技術と能力を持ち,日本の国づくりを根底で支えたと言える。
秦氏は4・5世紀ごろに朝鮮半島の新羅(「波旦」が出身地か)からきた弓月君(ゆづきのきみ)を祖とする氏族。弓月君は127県の3万〜4万人の人夫とともに九州に渡来した。「秦」と書くように,弓月君は秦の始皇帝の子孫とみることもあるがその根拠はない。土木技術や農業技術などに長けていた秦氏は灌漑設備も整えて土地の開墾を進んで行った。また,養蚕,機織,酒造,金工などももたらした。大和王権(大和朝廷)のもとでは財政担当の役人として仕えていた。本拠地は始め京都山背にあったが,後に太秦(うずまさ:京都市)に移り住んだ。中央での活躍と共に,秦氏の子孫たちは尾張・美濃や備中・筑前に至るまで,全国規模で勢力を伸ばしていった。
最初の渡来人たちは,紀元前にさかのぼるが,日本(九州を中心として)に米作りや土器などを伝えた人たちと考えられる。日本書紀・古事記が伝えるところによると,応神天皇期が最初の大規模な渡来とされているが,このころ朝鮮半島では大きな動乱が起きていた。それから逃げるように日本に渡来し,製鉄の技術や鉄製の農具,灌漑(かんがい)技術などを伝えた人たちがいた。かれらがもたらした道具や技術によって,それまでの生産方法や労働形態を一変させる一大改革が起こったのではないだろうか。また,馬や馬具ももたらされ,乗馬も行われるようになった。この後続く渡来人たちによって,政治にも影響を与えるような知識や文化,技術がもたらされた。7世紀には,白村江の戦いで敗れた百済からの亡命者たちが入ってきた。かれらもそれまでの日本にはない最新の技術や文化を伝えたり,朝廷の政治に大きく関わったりした。渡来人の持ち込んだ技術や文化によって当時の日本(倭国)は高度に発展したと言える。
渡来時期を4つに区分すると・・・
Ⅰ 紀元前2〜3世紀 弥生時代に日本に定住した。
Ⅱ 5世紀前後 倭の五王が治めてた時代で,朝鮮半島からの渡来人が多い。
Ⅲ 5世紀後半〜6世紀 今来漢人(いまきのあやひと)が最新技術をもたらした。
Ⅳ 7世紀 百済・高句麗などから亡命してきた。
4・5世紀の渡来人で代表的な集団といえば秦(はた)氏と漢(あや)氏(ともに個人名ではなく,集団名・一族名を指している)である。彼ら渡来人たちは優れた技術と能力を持ち,日本の国づくりを根底で支えたと言える。
秦氏は4・5世紀ごろに朝鮮半島の新羅(「波旦」が出身地か)からきた弓月君(ゆづきのきみ)を祖とする氏族。弓月君は127県の3万〜4万人の人夫とともに九州に渡来した。「秦」と書くように,弓月君は秦の始皇帝の子孫とみることもあるがその根拠はない。土木技術や農業技術などに長けていた秦氏は灌漑設備も整えて土地の開墾を進んで行った。また,養蚕,機織,酒造,金工などももたらした。大和王権(大和朝廷)のもとでは財政担当の役人として仕えていた。本拠地は始め京都山背にあったが,後に太秦(うずまさ:京都市)に移り住んだ。中央での活躍と共に,秦氏の子孫たちは尾張・美濃や備中・筑前に至るまで,全国規模で勢力を伸ばしていった。
これは メッセージ 190452 (yakuruto1 さん)への返信です.
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