Re: アホなんじゃ(猛爆)
投稿者: topics_jk 投稿日時: 2010/11/02 18:04 投稿番号: [179091 / 230347]
>更に大きな間違いは、将軍に睨まれたら改易?
アホか?
将軍は家康でなく秀忠だ。
ちっとは歴史を勉強しろ(嘲笑)
松平 忠輝(ウィキ)
改易・配流
しかし父・家康との距離は縮められずじまいのまま、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では留守居役を命じられる。剛毅な彼には不満が残る命令であったが結局これに従った。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で大坂に出陣した。
元和2年(1616年)4月、父・家康が死去した。家康は今際の際に秀忠・義直・頼宣・頼房らを枕元に呼びながら、忠輝だけは呼ばなかった。拝謁を望む忠輝は駿府まで自ら馳せ参じたが、家康は最後まで面会を許さなかった。「徳川実紀」は「忠輝、いそぎ発途して駿府へ参られ、宿老もて御気しき伺はれしに。家康は以の外の御いかりにて。城中へも入るべからざる旨仰下され。御対面も叶はざれば。少将(忠輝)せんかたなく御城下の禅寺に寓居して。御気のひまを伺ひて。謝し奉られんとする内に薨去……」と伝えている。
元和2年(1616年)7月6日、忠輝は大坂夏の陣の際に不行跡があったことを譴責され、兄・秀忠から改易を命じられ、伊勢朝熊に流罪とされた。生母茶阿局は、家康の側室の阿茶局に取り成しを依頼したが聞き入れられなかった。元和4年(1618年)には飛騨国高山藩に、寛永3年(1626年)には信濃国諏訪藩に流された。
改易するつもりだから、慶長20年(1615年)4月、大坂夏の陣の不行跡を、1年3ヶ月も経ってから咎められたのさ。将軍家を安定させるためには、将軍家と御三家以外の親族はどうでも良かったのよ。(猛爆)
これは メッセージ 179088 (nanja3231 さん)への返信です.
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