相撲は部落民研究家にとっては常に興味深い対象だった。
http://barrel.ih.otaru-uc.ac.jp/handle/10252/558江戸時代のエタは,死牛馬の処理や刑吏の仕事をするとともに,丹後の峰山(現京都府)などでは,元旦の「掃き始め」の時,箒や草履などを暮れに御家中・旧家などに配り,「扶持米」をもらったりしている(「風俗間状」)。
なにより中世末期から,芝居興行,能,相撲などの勧進興行では,エタ村に興行税(櫓銭)を支払う慣行があった。しかし,1708年(宝永5)に京都のからくり師小林新助が安房(現千葉県南部)でからくり芝居を興行中,エタ頭の弾左衛門に,「無断興行」をしたとして訴えられるが,江戸町奉行所は,小林を勝訴にした。
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文明開化期には,彼らは「国家に益なき遊芸」として,幾度か取り潰しの危機にあうが,市川団十郎の「活歴」(生きた歴史)に芝居を近づけようとする演劇改良運動や,ユ887年4月の天覧演劇によって生き残った(倉田,1999)。
相撲も同じで,72年3月,蛇使い及び男女相撲その他,「醜体の」見世物が禁止されるが,84年3月10日の芝離宮の天覧相撲によって,男相撲は公認されるようになる(雄松,1993)。
このように,芝居や相撲といった「悪所」の見世物が,「天覧」といった天皇制の「聖なる」権威によって生き残り,「悪所」の見世物や大道芸との関係を切断していった。しかもそこには,彼らの近代天皇制と結び付いた,壮絶な「身分」上昇運動が存在する。また歌舞伎や相撲は,きわめて「伝統的」な芸能(「梨園」)やスポーツ(「国技」)としては生き残れたかもしれないが,それは裏返せば,周縁民衆の持つエネルギーと切断していくことでもあった。ここに,「聖なるもの」と「賎なるもの」が,近代天皇制を軸にしながら再編成されていくひとつの例がある。