トピが乱れている<丶`д´>
投稿者: kim_taek_joo 投稿日時: 2006/01/27 19:40 投稿番号: [16129 / 230347]
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韓日併合と売春宿
朝鮮内では1920年までは一貫して、日本人の売春婦が朝鮮人売春婦より数の上では多いんです。人口比率から言いますと、1930年の日本人が50万で朝鮮人は200万人です。朝鮮人の4分の1にあたる日本人を侵略の尖兵に送っていたことに驚きますが、人口比率からすると日本人の売春婦の比率がいかに大きかったかということです。それが1920年を境に、朝鮮人の売春婦の中でも酌婦と芸妓が増えていきます。それはなぜかと言いますと、芸妓の場合は年齢制限がないからです。
朝鮮における日本人の売春婦は1910年までは、日本の売春業のあり方をそのまま持ち込み年齢制限を18歳とするんですね。1910年以降、年齢制限を17歳に下げます。民族差別だけでなく、植民地差別をするわけです。ちなみに台湾では16歳です。日本でまだ年が若くて売春させられない貧しい女性たちを朝鮮に連れて行き、朝鮮からさらに中国へ連れて行けるのです。日本の売春婦は中国へは直接出れなくとも、朝鮮経由で中国に連れ出されるのです。
同様に日本人の女性でも年が若かったら台湾に連れ出すのです。しかし酌婦や芸妓は、朝鮮では年齢制限はなかったために、いくら若くてもよかったわけです。貧しいけど年端がいかない人達は芸妓に流れて行きますし、娼妓として年がいくと逆に酌婦になるのです。より貧しい朝鮮の女性たちが、より条件の悪い酌婦とか芸妓になっていくのです。
いまから20年ほど前に、キ−セン観光ということが問題になりましたけど、ここでのキ−センと本来のキ−センとは違います。本来のキ−センは官庁お抱えで歌舞音曲が主な仕事であったり、王室の中の病気を直すことであり、縫い物をしてあげることにありました。そこに、売春が付随することがありました。売春と言いましても、不特定多数を相手にするのではありません。
キ−センは日本の植民地支配が進む中で、歌舞音曲よりも売春の部分が強調されていきます。日露戦争に勝ち日本が朝鮮を保護国とした後に、朝鮮の売春婦にも性病検査を強要します。性病検査を強要するだけではなく、朝鮮人のキ−センや売春婦を一ヵ所に集めて、売春させるようにします。
朝鮮のキ−センには歴史的にマネ−ジャ−に近い妓夫がいる場合もありました。夫であったり、愛人であったりもしましたが、彼らとの情愛もふくめて一切の関係が許されなくなるのです。植民地支配の中で自分たちの生が落としめられていると感じることができた層の一つがキ−センなのです。 1919年に、朝鮮の全土で植民地に反対する独立運動が起こったんですけど、このとき歴史の表舞台に初めて女性が登場したのです。それまでは、日本への外債を報償する民衆の運動に、女性たちが積極的に募金を集めたりすることはあったんですが、歴史の主役として登場してきたのは、1919年の3・1独立運動の時なんです。
その時に、特に活躍したのが女子学生とキ−センなんですね。女子学生と少し違い、キ−センの場合はただ単に、憂国で立ち上がったのではないんです。自分たちが植民地支配によって疎外され、抑圧され、貶められているということに対して憤りを感じたわけです。キ−センたちは、自分たちが歌舞音曲が後方に追いやられ、売春を軸として再編成されていくことに対して、悲しみ憤っていたことは1905年から10年の記録でも伺えるんですが、その不満が1919年の3・1独立運動となって表面化するわけです。
ソウル近郊の水原でキ−セン組合にいるキ−センたちが、組合から直接性病検査に行かされる病院の手前で、彼女たちが独立万歳と叫びます。検診を受けずに引き返し独立運動に合流します。その中のリ−ダ−格は6ヵ月の懲役刑を受けます。それが一つのきっかけになりまして、各地でキ−センの独立運動が起こるのです。
売春婦だけではなくて、女子労働者も朝鮮から日本に早く連れてこられます。綿布生産が壊滅的な打撃を受けた頃に、晋州や済州島などの綿布生産地域から、彼女たちの技能に目をつけた日本の紡績会社が、彼女たちを日本に連れてくるのです。日清戦争が勃発した前後に、三重紡績がすでに、朝鮮から百人の女性を連れてくるんです。ところが、食べ物とか言葉とか習慣とか、奴隷的な労働条件に彼女たちが耐えきれなくて逃げてしまいました。
朝鮮内では1920年までは一貫して、日本人の売春婦が朝鮮人売春婦より数の上では多いんです。人口比率から言いますと、1930年の日本人が50万で朝鮮人は200万人です。朝鮮人の4分の1にあたる日本人を侵略の尖兵に送っていたことに驚きますが、人口比率からすると日本人の売春婦の比率がいかに大きかったかということです。それが1920年を境に、朝鮮人の売春婦の中でも酌婦と芸妓が増えていきます。それはなぜかと言いますと、芸妓の場合は年齢制限がないからです。
朝鮮における日本人の売春婦は1910年までは、日本の売春業のあり方をそのまま持ち込み年齢制限を18歳とするんですね。1910年以降、年齢制限を17歳に下げます。民族差別だけでなく、植民地差別をするわけです。ちなみに台湾では16歳です。日本でまだ年が若くて売春させられない貧しい女性たちを朝鮮に連れて行き、朝鮮からさらに中国へ連れて行けるのです。日本の売春婦は中国へは直接出れなくとも、朝鮮経由で中国に連れ出されるのです。
同様に日本人の女性でも年が若かったら台湾に連れ出すのです。しかし酌婦や芸妓は、朝鮮では年齢制限はなかったために、いくら若くてもよかったわけです。貧しいけど年端がいかない人達は芸妓に流れて行きますし、娼妓として年がいくと逆に酌婦になるのです。より貧しい朝鮮の女性たちが、より条件の悪い酌婦とか芸妓になっていくのです。
いまから20年ほど前に、キ−セン観光ということが問題になりましたけど、ここでのキ−センと本来のキ−センとは違います。本来のキ−センは官庁お抱えで歌舞音曲が主な仕事であったり、王室の中の病気を直すことであり、縫い物をしてあげることにありました。そこに、売春が付随することがありました。売春と言いましても、不特定多数を相手にするのではありません。
キ−センは日本の植民地支配が進む中で、歌舞音曲よりも売春の部分が強調されていきます。日露戦争に勝ち日本が朝鮮を保護国とした後に、朝鮮の売春婦にも性病検査を強要します。性病検査を強要するだけではなく、朝鮮人のキ−センや売春婦を一ヵ所に集めて、売春させるようにします。
朝鮮のキ−センには歴史的にマネ−ジャ−に近い妓夫がいる場合もありました。夫であったり、愛人であったりもしましたが、彼らとの情愛もふくめて一切の関係が許されなくなるのです。植民地支配の中で自分たちの生が落としめられていると感じることができた層の一つがキ−センなのです。 1919年に、朝鮮の全土で植民地に反対する独立運動が起こったんですけど、このとき歴史の表舞台に初めて女性が登場したのです。それまでは、日本への外債を報償する民衆の運動に、女性たちが積極的に募金を集めたりすることはあったんですが、歴史の主役として登場してきたのは、1919年の3・1独立運動の時なんです。
その時に、特に活躍したのが女子学生とキ−センなんですね。女子学生と少し違い、キ−センの場合はただ単に、憂国で立ち上がったのではないんです。自分たちが植民地支配によって疎外され、抑圧され、貶められているということに対して憤りを感じたわけです。キ−センたちは、自分たちが歌舞音曲が後方に追いやられ、売春を軸として再編成されていくことに対して、悲しみ憤っていたことは1905年から10年の記録でも伺えるんですが、その不満が1919年の3・1独立運動となって表面化するわけです。
ソウル近郊の水原でキ−セン組合にいるキ−センたちが、組合から直接性病検査に行かされる病院の手前で、彼女たちが独立万歳と叫びます。検診を受けずに引き返し独立運動に合流します。その中のリ−ダ−格は6ヵ月の懲役刑を受けます。それが一つのきっかけになりまして、各地でキ−センの独立運動が起こるのです。
売春婦だけではなくて、女子労働者も朝鮮から日本に早く連れてこられます。綿布生産が壊滅的な打撃を受けた頃に、晋州や済州島などの綿布生産地域から、彼女たちの技能に目をつけた日本の紡績会社が、彼女たちを日本に連れてくるのです。日清戦争が勃発した前後に、三重紡績がすでに、朝鮮から百人の女性を連れてくるんです。ところが、食べ物とか言葉とか習慣とか、奴隷的な労働条件に彼女たちが耐えきれなくて逃げてしまいました。
これは メッセージ 1 (the_rich_and_smooth さん)への返信です.
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