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Re: 1911年5月

投稿者: topics_jk 投稿日時: 2009/12/10 12:55 投稿番号: [158920 / 230347]
参考するものが無ければ、書けないだろうが?(猛爆)

原本は、日本陸軍が日本に持ち去って、人知れず何処かに眠っているだろうよ。(猛爆)

契丹古伝
ttp://www.hachiman.com/books/89350-561-0.html

契丹古伝要旨
ttp://www.hachiman.com/yomimono/kitankaisetu.html

「契丹古伝」撰録の経緯は、本書六五一頁以下に詳述されているが、おおよそ次のような次第であった。
・・天顕元年、太祖が東閣に登り、太陽を拝すると、朱色の鶏が飛来し城郭の上を飛んだ。太祖はその行方を探索させたが、みつからなかった。ところが、会同元年六月にふたたび朱鶏が顕れ、その行方を追うと近くの山で霊石を得た。その霊石には紅と紫の模様で自然に神頌が浮かびあがっていた。太祖はこれを喜び、「わが先祖は神祖奇契丹燕より出たもので、いわゆる炎帝である。五原の地を回復せずんばご先祖さまにあわせる顔がない」と言って、神廟を建てて自らこの霊石を奉斎した。後に太祖の妃応天皇太后は、宮廷に諸学者を集め、この神頌の意味を問うたが、はるか昔のものであり、いまは語音も変化してしまい、古義を明らかにすることは不可能であると答えた。そこで皇太后は、語韻の心が通ずれば神は必ずこれを明らかにされようとて、楽人に命じて譜を作らせ琴の調べに乗せられた。それは幽々森厳としてまさに神の調べであった。ここに耶律羽之は、頌詞を謹んで録し、これを解明するために古伝を撰録した。
撰録に際して、羽之は『秘府録』『費弥国氏洲鑑』『神統誌』『辰殷大記』『耶摩駘記』『洲鮮記』などの諸書を参考にしている。このうち『耶摩駘記』の筆者は塢須弗で、宝亀四年(七七三)に日本に渡来した渤海使烏須弗と同一人物と推定される。つまり、これらの古伝の多くは旧渤海国系のものと推定され、契丹古伝中の固有名詞の音借表記は契丹音なのか渤海音なのか音価の同定が著しく困難であるが、日本古語による解読を許容すると推定される部分がかなりあり、浜名もそこに注目したのである。


『耶摩駘記』の筆者は塢須弗で、宝亀四年(七七三)に日本に渡来した渤海使烏須弗と同一人物と推定される。

続日本紀巻第卅二
《宝亀四年(七七三)六月丙辰【十二】》○丙辰。能登国言。渤海国使烏須弗等。乗船一艘来著部下。差使勘問。烏須弗報書曰。渤海日本。久来好隣。往来朝聘。如兄如弟。近年日本使内雄等。住渤海国。学問音声。却返本国。今経十年。未報安否。由是。差大使壱万福等。遣向日本国擬於朝参。稍経四年。未返本国。更差大使烏須弗等〓人。面奉詔旨。更無余事。所附進物及表書。並在船内。
《宝亀四年(七七三)六月戊辰【廿四】》○戊辰。遣使宣告渤海使烏須弗曰。太政官処分。前使壱万福等所進表詞驕慢。故告知其状罷去已畢。而今能登国司言。渤海国使烏須弗等所進表函。違例無礼者。由是不召朝廷。返却P4268本郷。但表函違例者。非使等之過也。渉海遠来。事須憐矜。仍賜禄并路糧放還。又渤海使取此道来朝者。承前禁断。自今以後。宜依旧例従筑紫道来朝。
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