Re: 日本と韓国の議論の広場
投稿者: rie2376 投稿日時: 2009/07/24 10:02 投稿番号: [152280 / 230347]
投稿が少ないようなので、賑やかしに
この前の続きで、新撰組を
多摩の夢
鳥羽伏見の戦いで敗北を喫した新撰組は
江戸に戻り再起を計る、生き残った
隊士は約百名
この頃、江戸の市中は官軍による
江戸総攻撃が迫り大混乱をきたしていた、
将軍慶喜は、江戸城から寛永寺に蟄居謹慎
新撰組も一旦寛永寺に集結して、慶喜警護の
任に就いていた
そんな折、近藤の元に耳寄りな話が
飛び込んで来る
甲府城に入り、官軍を迎え撃ったら
どうかと言うのである
近藤殿、甲府城は天然の要塞にして
難攻不落
新撰組再興には、打ってつけと存ずる
分かり申した 何卒良しなに
近藤は直ちに幕府の実力者、勝海舟に
持ちかける 海舟はもはや時代は
後戻りする事はないと判断していた
その勝が意外にも、近藤の案を受け入れ
軍資金五千両 大砲二門 鉄砲百丁を
与えている
窺った見方をすれば、江戸総攻撃中止を
模索していた勝にとって、強硬派の近藤や
土方は邪魔な存在であり、江戸から
追い払いたかった、
この時近藤は若年寄格、土方は寄合席格に
大抜擢されている
これは、大名旗本と同格であった
直ちに新撰組を主体とする、甲陽鎮撫隊が
結成され勇躍甲州へ向かっていった
甲州までの途中に多摩があった 近藤や
土方の故郷であり、人々は大名格となった
二人を大喝采で迎えた
毎夜のように祝宴が張られ、郷土の英雄を
一目見ようと人々は、列をなして押しかけた
隊士の手記には、こう記されている
今日も御祝い、明日も御祝いにて
一日四里より進まず
近藤や土方にとっても、郷里に錦を飾った
この数日は、生涯で最も輝いた一瞬であった
しかしこれが、大きな禍根を残す事になった
計らずも、甲府城にはいち早く官軍が
入城していた、郷里の人々の持てなしが
仇となって、先を越されたのである
更に兵力は甲陽隊の五倍を越え、勝敗は
火を見るより明らかであった
勝沼に布陣した甲陽隊は、官軍の容赦ない
砲弾に晒され、散りじりとなって撤退
再び江戸に舞い戻る
江戸に戻った近藤らは、千住の近く
五兵衛新田に腰を落ち着け、新たな策を
巡らす
永倉新八が進言する
近藤さん、官軍はもうそこまで来ている
恐らく江戸は持つまい
会津に行こう、会津には
松平容保公がおられる
容保(かたもり)公と共に
官軍と一戦交えよう
だめだ、我等は慶喜様を御守りする
役目がある、今、江戸を離れる訳には
いかない
近藤さん、もはや容保公しか頼れぬ
考え直してくれ
近藤は無言であった、業を煮やした永倉や
原田左ノ助は決然と席を蹴る
我等は我等の道を行く、御免!
近藤には止める事は出来なかった、こうして
試衛館からの同志は、袂を分ける事になった
やがて千住にも官軍が押し寄せ、やむなく
近藤と土方は一隊を引き連れ下総の国
流山に退却する
京の都で、童子にまでその名を知られた
近藤勇に、終焉の時が迫ろうとしていた
流山には二千を越す官軍が待ち受け
近藤は出頭命令を受ける、この時近藤は
切腹を決意 土方に打ち明ける
歳さん、いよいよ最後の時が来たようだ
捕縛され、辱めを受ける位なら武士らしく
腹を切りたい、介錯を頼む
近藤さん、それは犬死にというもの
何としても切り抜け、共に戦おう
短慮は、凡夫の所業なり
土方は涙を浮かべ説得する、何としても
近藤は死なせない
死ぬ時は一緒、そう言ったではないか
近藤さん
近藤は土方の意を汲み 大久保大和と
名乗り詰問を切り抜けようとする
しかし官軍の中に、近藤をよく知る者が
おり逃れるすべは無かった
それでも土方は奔走する、勝海舟の元に
走り近藤助命の嘆願書を差し出す
願いは届かず近藤処刑の決定は下された
慶応四年四月二十五日、近藤は板橋で
首を落とされる、武士としての切腹も
許されず、無念の最後であった
享年三十五歳
遅れる事一月余り、江戸千駄ヶ谷で
療養中の沖田総司も病没、享年二十六歳
土方は各地を転戦した後、最後は
函館五稜郭で戦死、奇しくも近藤と同じ
享年三十五歳であった
多摩で生まれ、京で活躍し関東で
散った新撰組
彼等も又龍馬や高杉と同じく、時代の渦に
巻き込まれた青年群像であった
この前の続きで、新撰組を
多摩の夢
鳥羽伏見の戦いで敗北を喫した新撰組は
江戸に戻り再起を計る、生き残った
隊士は約百名
この頃、江戸の市中は官軍による
江戸総攻撃が迫り大混乱をきたしていた、
将軍慶喜は、江戸城から寛永寺に蟄居謹慎
新撰組も一旦寛永寺に集結して、慶喜警護の
任に就いていた
そんな折、近藤の元に耳寄りな話が
飛び込んで来る
甲府城に入り、官軍を迎え撃ったら
どうかと言うのである
近藤殿、甲府城は天然の要塞にして
難攻不落
新撰組再興には、打ってつけと存ずる
分かり申した 何卒良しなに
近藤は直ちに幕府の実力者、勝海舟に
持ちかける 海舟はもはや時代は
後戻りする事はないと判断していた
その勝が意外にも、近藤の案を受け入れ
軍資金五千両 大砲二門 鉄砲百丁を
与えている
窺った見方をすれば、江戸総攻撃中止を
模索していた勝にとって、強硬派の近藤や
土方は邪魔な存在であり、江戸から
追い払いたかった、
この時近藤は若年寄格、土方は寄合席格に
大抜擢されている
これは、大名旗本と同格であった
直ちに新撰組を主体とする、甲陽鎮撫隊が
結成され勇躍甲州へ向かっていった
甲州までの途中に多摩があった 近藤や
土方の故郷であり、人々は大名格となった
二人を大喝采で迎えた
毎夜のように祝宴が張られ、郷土の英雄を
一目見ようと人々は、列をなして押しかけた
隊士の手記には、こう記されている
今日も御祝い、明日も御祝いにて
一日四里より進まず
近藤や土方にとっても、郷里に錦を飾った
この数日は、生涯で最も輝いた一瞬であった
しかしこれが、大きな禍根を残す事になった
計らずも、甲府城にはいち早く官軍が
入城していた、郷里の人々の持てなしが
仇となって、先を越されたのである
更に兵力は甲陽隊の五倍を越え、勝敗は
火を見るより明らかであった
勝沼に布陣した甲陽隊は、官軍の容赦ない
砲弾に晒され、散りじりとなって撤退
再び江戸に舞い戻る
江戸に戻った近藤らは、千住の近く
五兵衛新田に腰を落ち着け、新たな策を
巡らす
永倉新八が進言する
近藤さん、官軍はもうそこまで来ている
恐らく江戸は持つまい
会津に行こう、会津には
松平容保公がおられる
容保(かたもり)公と共に
官軍と一戦交えよう
だめだ、我等は慶喜様を御守りする
役目がある、今、江戸を離れる訳には
いかない
近藤さん、もはや容保公しか頼れぬ
考え直してくれ
近藤は無言であった、業を煮やした永倉や
原田左ノ助は決然と席を蹴る
我等は我等の道を行く、御免!
近藤には止める事は出来なかった、こうして
試衛館からの同志は、袂を分ける事になった
やがて千住にも官軍が押し寄せ、やむなく
近藤と土方は一隊を引き連れ下総の国
流山に退却する
京の都で、童子にまでその名を知られた
近藤勇に、終焉の時が迫ろうとしていた
流山には二千を越す官軍が待ち受け
近藤は出頭命令を受ける、この時近藤は
切腹を決意 土方に打ち明ける
歳さん、いよいよ最後の時が来たようだ
捕縛され、辱めを受ける位なら武士らしく
腹を切りたい、介錯を頼む
近藤さん、それは犬死にというもの
何としても切り抜け、共に戦おう
短慮は、凡夫の所業なり
土方は涙を浮かべ説得する、何としても
近藤は死なせない
死ぬ時は一緒、そう言ったではないか
近藤さん
近藤は土方の意を汲み 大久保大和と
名乗り詰問を切り抜けようとする
しかし官軍の中に、近藤をよく知る者が
おり逃れるすべは無かった
それでも土方は奔走する、勝海舟の元に
走り近藤助命の嘆願書を差し出す
願いは届かず近藤処刑の決定は下された
慶応四年四月二十五日、近藤は板橋で
首を落とされる、武士としての切腹も
許されず、無念の最後であった
享年三十五歳
遅れる事一月余り、江戸千駄ヶ谷で
療養中の沖田総司も病没、享年二十六歳
土方は各地を転戦した後、最後は
函館五稜郭で戦死、奇しくも近藤と同じ
享年三十五歳であった
多摩で生まれ、京で活躍し関東で
散った新撰組
彼等も又龍馬や高杉と同じく、時代の渦に
巻き込まれた青年群像であった
これは メッセージ 1 (the_rich_and_smooth さん)への返信です.
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