Re: 日本と韓国の議論の広場
投稿者: rie2376 投稿日時: 2009/07/07 08:42 投稿番号: [150737 / 230347]
投稿が少ないようなので、賑やしに
歴史物を
新選組 参上
文久三年正月、春まだ浅い江戸小石川の
試衛館道場に、沖田総司が顔色を変えて
飛び込んで来た
近藤先生、一大事です
京に行けるかも知れません
上様警護の隊士を、募っています
何、本当か!
ええ、間違いありません
稽古に励む土方や、永倉新八の間にも
どよめきが起こる
檄文によると
京都守護の為、憂国の士を募るものなり
出自 身分 何れも御構い無し
剣術に心得のある者
揃って参画(かく)されたし
当時京都では、長州藩を中心とした
過激派浪士による幕府要人の暗殺が頻発し
治安が極度に悪化していた
この為幕府は、京の治安を回復するべく
組織作りを急ぐ
近藤は門弟を集め
私は京に出る、上様守護奉り(たてまつり)
士道を極める覚悟
志ある者、共に京へに登らん
こうして 土方歳三、永倉新八 沖田総司
藤堂平助 原田左之助等、試衛館の
主だった者が京に向かって行った
京では警護の組織が幾つか作られた
近藤達が所属したのは、主に祇園周辺を
見回る、新撰組であった
忠臣蔵を真似た衣装を着込み、誠の旗を
掲げて市中を見回るさまは、さながら
赤穂浪士の心意気を示すが如きであった
近藤や土方は、赤穂四十七士に強い
憧れを持っていた
主君の仇討ちに命を投げ出す、彼等こそ
真の武士(もののふ)である
新撰組も斯く在るべし
こうして局中法度を始め、厳しい規律が
決められていった
そんな新撰組の京での評判は、冷ややかで
あり表向きは兎も角、影では壬生ろうと
呼ばれていた
壬生ろうとは、壬生に巣食う浪人達
と言う意味である
やがて旗揚げから一年が過ぎ、大きな
実績も無いまま、近藤や土方に焦りの
色が出始めていた
歳さん、もう一年経つ このままでは
多摩の皆に顔向けが出来ない
近藤さん、焦っても仕方が無い
時を待とう
そんな折、驚くべき知らせが近藤の元に
飛び込んで来た
商人に扮した長州藩士、古高俊太郎を
捕らえ拷問にかけると、古高は堪らず
白状する
それによると、御所に火をかけその隙に
お上を長州にお移しするという
驚くべきものであった
近藤は直ちに、京都所司代にこの事を伝え
計画阻止の為援軍を要請する、しかし
所司代は煮え切らなかった
自分達の手は汚したくない、雇われ部隊の
新撰組に総て任せたい、そんな思惑が
見え隠れしていた
業を煮やした近藤は、新撰組単独で
事に当ることを決意する
元治元年六月五日夕刻、八坂神社前に
集まった新撰組隊士は三十四名
これを二手に分け捜索に当る
土方の率いる二十四名は、茶屋の多い
鴨川の東側を、近藤隊は旅籠の多い
西側を捜索する
近藤隊が池田屋に集結する、長州藩士を
見つけ出したのは捜索開始から三時間後
夜の十時頃であった
局長、如何します 切り込むか
それとも、土方さんを待つか
無論、決まっている 六名は裏に回れ
総司、平助、永倉君 君達は私と一緒に
正面から切り込んで貰う
近藤と三人は、池田屋の正面から
斬り込んでいった
待ち受けていたのは、二十数名の長州藩士で
あった、二階に駆け上がった近藤と沖田は
抜刀して待ち受ける長州勢と、壮絶な
斬り合いになった
戦いの途中、総司は吐血して動けなくなり
近藤は一人で奮戦する、この時一階で
戦っていた藤堂平助も眉間に傷を受け
戦闘不能に陥っていた
池田屋の中で戦うのは、永倉新八と近藤二人
二人は次第に追い詰められ、死をも覚悟した
その時
近藤さん、総司、無事か!
土方隊が到着したのである、これにより戦いの
帰趨は一気に新撰組に傾き、長州藩士は
殆どが捕らえられた
その数、捕縛者十数名 死者七名
これにより新撰組は、一気に名を挙げ京は
おろか全国にその名を轟かせた
この功により、近藤は将軍に直接目通りが
叶う旗本に取り立てられ、土方や沖田は
御家人となった
池田屋事件は大きな意味を持っていた
この事件に激昂した長州は、京に攻め上り
蛤御門で、薩摩と激しい戦闘を繰り広げた
長州は敗れ、追われるように国元に
去って行った
この辺りが新選組の絶頂期であり
その後は、厳しい逆風が待っていた
その辺は次回にでも
歴史物を
新選組 参上
文久三年正月、春まだ浅い江戸小石川の
試衛館道場に、沖田総司が顔色を変えて
飛び込んで来た
近藤先生、一大事です
京に行けるかも知れません
上様警護の隊士を、募っています
何、本当か!
ええ、間違いありません
稽古に励む土方や、永倉新八の間にも
どよめきが起こる
檄文によると
京都守護の為、憂国の士を募るものなり
出自 身分 何れも御構い無し
剣術に心得のある者
揃って参画(かく)されたし
当時京都では、長州藩を中心とした
過激派浪士による幕府要人の暗殺が頻発し
治安が極度に悪化していた
この為幕府は、京の治安を回復するべく
組織作りを急ぐ
近藤は門弟を集め
私は京に出る、上様守護奉り(たてまつり)
士道を極める覚悟
志ある者、共に京へに登らん
こうして 土方歳三、永倉新八 沖田総司
藤堂平助 原田左之助等、試衛館の
主だった者が京に向かって行った
京では警護の組織が幾つか作られた
近藤達が所属したのは、主に祇園周辺を
見回る、新撰組であった
忠臣蔵を真似た衣装を着込み、誠の旗を
掲げて市中を見回るさまは、さながら
赤穂浪士の心意気を示すが如きであった
近藤や土方は、赤穂四十七士に強い
憧れを持っていた
主君の仇討ちに命を投げ出す、彼等こそ
真の武士(もののふ)である
新撰組も斯く在るべし
こうして局中法度を始め、厳しい規律が
決められていった
そんな新撰組の京での評判は、冷ややかで
あり表向きは兎も角、影では壬生ろうと
呼ばれていた
壬生ろうとは、壬生に巣食う浪人達
と言う意味である
やがて旗揚げから一年が過ぎ、大きな
実績も無いまま、近藤や土方に焦りの
色が出始めていた
歳さん、もう一年経つ このままでは
多摩の皆に顔向けが出来ない
近藤さん、焦っても仕方が無い
時を待とう
そんな折、驚くべき知らせが近藤の元に
飛び込んで来た
商人に扮した長州藩士、古高俊太郎を
捕らえ拷問にかけると、古高は堪らず
白状する
それによると、御所に火をかけその隙に
お上を長州にお移しするという
驚くべきものであった
近藤は直ちに、京都所司代にこの事を伝え
計画阻止の為援軍を要請する、しかし
所司代は煮え切らなかった
自分達の手は汚したくない、雇われ部隊の
新撰組に総て任せたい、そんな思惑が
見え隠れしていた
業を煮やした近藤は、新撰組単独で
事に当ることを決意する
元治元年六月五日夕刻、八坂神社前に
集まった新撰組隊士は三十四名
これを二手に分け捜索に当る
土方の率いる二十四名は、茶屋の多い
鴨川の東側を、近藤隊は旅籠の多い
西側を捜索する
近藤隊が池田屋に集結する、長州藩士を
見つけ出したのは捜索開始から三時間後
夜の十時頃であった
局長、如何します 切り込むか
それとも、土方さんを待つか
無論、決まっている 六名は裏に回れ
総司、平助、永倉君 君達は私と一緒に
正面から切り込んで貰う
近藤と三人は、池田屋の正面から
斬り込んでいった
待ち受けていたのは、二十数名の長州藩士で
あった、二階に駆け上がった近藤と沖田は
抜刀して待ち受ける長州勢と、壮絶な
斬り合いになった
戦いの途中、総司は吐血して動けなくなり
近藤は一人で奮戦する、この時一階で
戦っていた藤堂平助も眉間に傷を受け
戦闘不能に陥っていた
池田屋の中で戦うのは、永倉新八と近藤二人
二人は次第に追い詰められ、死をも覚悟した
その時
近藤さん、総司、無事か!
土方隊が到着したのである、これにより戦いの
帰趨は一気に新撰組に傾き、長州藩士は
殆どが捕らえられた
その数、捕縛者十数名 死者七名
これにより新撰組は、一気に名を挙げ京は
おろか全国にその名を轟かせた
この功により、近藤は将軍に直接目通りが
叶う旗本に取り立てられ、土方や沖田は
御家人となった
池田屋事件は大きな意味を持っていた
この事件に激昂した長州は、京に攻め上り
蛤御門で、薩摩と激しい戦闘を繰り広げた
長州は敗れ、追われるように国元に
去って行った
この辺りが新選組の絶頂期であり
その後は、厳しい逆風が待っていた
その辺は次回にでも
これは メッセージ 1 (the_rich_and_smooth さん)への返信です.
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