Re: 日本と韓国の議論の広場
投稿者: kim_taek_joo 投稿日時: 2005/12/15 19:26 投稿番号: [14482 / 230347]
韓日合併条約は日本の一方的な行為であり、大韓民国はもちろん、隣国の中華民国もこれを認めていない事実、また大韓民国人は日本の36年間の占領期間中日本国籍法の適用を受けなかったという事実、そして三干万同砲は36年間に亘り、中国とその他連合国よりも先立って武力による日本との戦争行為を強行(例:青山里戦闘)する一方、国内でも非暴力抗争(例:三・一運動、六・一○万歳事件、光州学生事件)を展開した多くの歴史的事実を見ても今回の日本に対する戦争は大韓民国が多大な人的、物的犠牲のもとに最も長期間に亘り戦ったと言えるものであり、連合国、特に米国の参戦により最終的段階である解放に至ったものである。
このように見る時、大韓民国人はその所在の如何を問わず連合国民としての待遇を正当に受けるべきであり、日本の戦争目的で強制的に渡日させられた同胞たちが誰よりも先に連合国人の待遇を堂々と保有するべきだと見るものである。
大韓民国国内でも鬼畜日帝に対する独立運動計画が活発化していた時に、東京で血気盛んな若い優秀な学生たちが、2,8運動を起こしそれが導火線となって一気に爆発したのである。
【 1919年2月8日、東京に集まった約600名の留学生は、朝鮮青年独立団の名の下に独立宣言書を採択した。これが韓国の独立運動の先駆けとなった二・八東京宣言と呼ばれるものである。
一方韓国国内でも、1月の高宗の急死は日本による毒殺であったとの噂が流れ、3月3日の国葬日に向けて国内の独立運動計画が活発化した。国内に大きな教団組織をもっていた天道教とキリスト教は、運動計画を合わせるための会合を重ねた。
その運動の姿勢として、同年4月に上海で組織された大韓民国臨時政府は、その臨時憲章の第一条で「大韓民国ハ民主共和制トス」と宣言し、王制復活ではなく民主化を追求する姿勢を明らかにした。】
http://www.mindan.org/shinbun/990203/topic/topic_a.htm
全国的運動に進展しつつあった大韓民国の独立運動の動きを見て、日本国内では、原敬が朝鮮総督に対して次のような発言をしている。「今回の事件は内外に対し極めて軽微なる問題となすを必要とす。然れども実際に於いて厳重なる処置を取りて再び発生せざる事を期せよ。」
そして原は、日本本国から通常編成より多い6個大隊と、憲兵300〜400名の増派を決定した。 日本軍警による流血の弾圧に対し、非暴力的だった運動も次第に暴力化していってしまった。そしてパゴダ公園に記録されているような、日本軍が老若男女に暴力を振るい、幼児に銃剣を突き刺すといった凄惨な場面が各地で繰り広げられたのだ。日本軍の蛮行は数え上げたらきりがないが、次のような報告も存在する。「日本兵士カ剣ヲ以テ鮮人少年ノ頭蓋骨ヲ打砕スルヲ目撃セリ、又妊婦ノ腹部ニ剣ヲ突キ刺スルヲ目撃セリ」
この運動についての一般的理解は以下のようである。歴史の教科書にも記述されている通りである。三・一独立運動で、「皇国日本の朝鮮民族に対する残虐な支配の実態が全世界に暴露され、事件の収拾策として『文化統治』の看板を掲げ、憲兵警察制度を廃止し、言論、出版等の自由も認めたが、検閲が厳しく、禁止とほとんど変わりなかった。憲兵隊が警察署に変わっただけで、実態は武断政治のままで八・一五解放までつづいた。」 つまり三・一独立運動を経て、日本は諸外国の目も気にしつつ名義上武力弾圧を行わないとしながら、実際には以前と大して変わらない圧制をしき続けていたということである。
わが国国内で発展しつつあった独立運動を爆発させたのが、2.8運動なのです。偉大な大韓民国の若い学生たちは行動力がありその当時から立派でした。東方礼儀の国として有名でしたが、本気で怒る時はありますよ。いつも冷静ではありません。
わかったね!
このように見る時、大韓民国人はその所在の如何を問わず連合国民としての待遇を正当に受けるべきであり、日本の戦争目的で強制的に渡日させられた同胞たちが誰よりも先に連合国人の待遇を堂々と保有するべきだと見るものである。
大韓民国国内でも鬼畜日帝に対する独立運動計画が活発化していた時に、東京で血気盛んな若い優秀な学生たちが、2,8運動を起こしそれが導火線となって一気に爆発したのである。
【 1919年2月8日、東京に集まった約600名の留学生は、朝鮮青年独立団の名の下に独立宣言書を採択した。これが韓国の独立運動の先駆けとなった二・八東京宣言と呼ばれるものである。
一方韓国国内でも、1月の高宗の急死は日本による毒殺であったとの噂が流れ、3月3日の国葬日に向けて国内の独立運動計画が活発化した。国内に大きな教団組織をもっていた天道教とキリスト教は、運動計画を合わせるための会合を重ねた。
その運動の姿勢として、同年4月に上海で組織された大韓民国臨時政府は、その臨時憲章の第一条で「大韓民国ハ民主共和制トス」と宣言し、王制復活ではなく民主化を追求する姿勢を明らかにした。】
http://www.mindan.org/shinbun/990203/topic/topic_a.htm
全国的運動に進展しつつあった大韓民国の独立運動の動きを見て、日本国内では、原敬が朝鮮総督に対して次のような発言をしている。「今回の事件は内外に対し極めて軽微なる問題となすを必要とす。然れども実際に於いて厳重なる処置を取りて再び発生せざる事を期せよ。」
そして原は、日本本国から通常編成より多い6個大隊と、憲兵300〜400名の増派を決定した。 日本軍警による流血の弾圧に対し、非暴力的だった運動も次第に暴力化していってしまった。そしてパゴダ公園に記録されているような、日本軍が老若男女に暴力を振るい、幼児に銃剣を突き刺すといった凄惨な場面が各地で繰り広げられたのだ。日本軍の蛮行は数え上げたらきりがないが、次のような報告も存在する。「日本兵士カ剣ヲ以テ鮮人少年ノ頭蓋骨ヲ打砕スルヲ目撃セリ、又妊婦ノ腹部ニ剣ヲ突キ刺スルヲ目撃セリ」
この運動についての一般的理解は以下のようである。歴史の教科書にも記述されている通りである。三・一独立運動で、「皇国日本の朝鮮民族に対する残虐な支配の実態が全世界に暴露され、事件の収拾策として『文化統治』の看板を掲げ、憲兵警察制度を廃止し、言論、出版等の自由も認めたが、検閲が厳しく、禁止とほとんど変わりなかった。憲兵隊が警察署に変わっただけで、実態は武断政治のままで八・一五解放までつづいた。」 つまり三・一独立運動を経て、日本は諸外国の目も気にしつつ名義上武力弾圧を行わないとしながら、実際には以前と大して変わらない圧制をしき続けていたということである。
わが国国内で発展しつつあった独立運動を爆発させたのが、2.8運動なのです。偉大な大韓民国の若い学生たちは行動力がありその当時から立派でした。東方礼儀の国として有名でしたが、本気で怒る時はありますよ。いつも冷静ではありません。
わかったね!
これは メッセージ 1 (the_rich_and_smooth さん)への返信です.
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