日本と韓国の議論の広場

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Re: 日本と韓国の議論の広場

投稿者: rie2376 投稿日時: 2009/02/07 10:30 投稿番号: [136108 / 230347]
休日の時間潰しに歴史物を

         菅原道真公

昌泰(しょうたい)四年一月、醍醐天皇より
急遽御所に召された朝廷要人の中に、右大臣
菅原道真の姿だけがなかった

いぶかる要人達の前で、左大臣藤原時平が
天皇の詔   (みことのり)を奉じる

右大臣菅原道真、不届きの儀これあり
よって右大臣職を解き、大宰府へ転任を命ず

これは時平が仕組んだ策謀であった、宇多上皇を
後ろ盾に、権力の中枢に迫る道真に、危惧を
抱いた藤原氏の反撃でもあった

代々菅原家は学問で朝廷に仕えてきた、道真も
三十三歳の折、文章(もんじょう)博士に
任じられる、学者として最高の名誉であった

道真は夜を徹して、学問に打ち込んだ

その道真を政治に目覚めさせる転機が訪れる
仁和二年、突如文章博士を解任され讃岐の国の
国司に命じられる

道真の落胆は大きかった、学者としての道が
閉ざされ辺境の国司となる、しかし宮仕えの
身には逆らう事は出来なかった

讃岐に入った道真は、余りの荒れ果てた
惨状に驚き、呆然と立ちすくむ

何とした事、人々は破れた衣をまとい
その日の糧にも、窮している

道真は、思案に耽る

自分に何が出来るのか、国司としてどう
対処すればいいのか

疲弊する民衆を救うには、何を成すべきか

そして政治に打ち込んで行く、税の軽減
新田の開墾   次々に手を打ち次第に讃岐に
安定が訪れるようになった

更に道真は意見書を朝廷に差し出す、それは
財政改革に付いてであった、当時朝廷の財政は
慢性的な税収不足で崩壊寸前であった

租税は男子のみに掛けられ、総ては国が
管理していた、この為農民は戸籍に男子を
記載せず、女子だけを記載するようになった

更に税の重い国の管理を嫌い、寺や貴族に
土地を寄進し   僅かな名義料を払って実質的に
土地を支配した

これでは国に税は入る筈はなかった、道真は
この点について意見書を、差し出したのである

それは、税は人に掛けるのではなく、土地に
かけるべきであり   寺や荘園に寄進した土地は
総て農民に返し、税も軽減するというもので
あった

この道真の意見書に目を付けたのが、宇多天皇で
あった、宇多天皇は改革の道を模索していた
しかし強大な藤原氏に抑えられ、意は叶えられ
なかった

道真が任期を終え、京に戻ると宇多天皇は早速
道真を呼び、側に仕えるよう命じるのである

これから、道真の大抜擢が始まった、僅か
三年の間に九つの要職を歴任、ついに参議と
なった

この間道真は、財政改革に辣腕を振るう
税制を改革し税の増収を計った

更に全国に、問民苦使(もんみんくし)を
派遣する、これは困窮する農民の訴えを聞き
問題の解決に役立てようと言うものであった

道真は、上皇となった宇多天皇の厚い信頼の元
菖泰二年、右大臣となる、藤原氏以外に
右大臣に抜擢されるのは、極めて異例であった

それは藤原氏にとって大いなる脅威であった
又道真が押し進める改革は、彼ら貴族に取って
自らの基盤を失いかねない、大失政と映った
のである

それが菖泰四年一月、道真の失脚に繋がっていった

道真は、この知らせを屋敷で聞く

急ぎ御所に上り、お上に奏じるべきか
それとも、法皇様におすがりして
我が意を伝えるべきか

道真は、どちらもしなかった、

これも已む無し、我はただ日ノ本の
安泰を願うのみ

妻子を残し単身、大宰府に向け旅立っていった

東風吹かば、匂いおこせよ梅の花
あるじなしとて、春な忘れそ

大宰府に赴任してより二年の後、延喜三年二月
二十五日、道真は失意の内に息を引き取った
(享年五十九歳)

道真亡き後、改革を推し進めたのは意外にも
あの藤原時平であった   困窮した財政を立て
直すには、道真の敷いた改革の道を歩まざるを
得なかった

そしてそれは大成功を収め、人々は余裕を
取り戻し、後に華開く平安文化の礎となった
のである

学問の神様として全国で信仰を集める天神様
菅原道真公

その実像は、財政改革を成し得た真の政治家
だったと言えるかも知れない
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)