Re: 日本と韓国の議論の広場
投稿者: rie2376 投稿日時: 2009/01/10 13:09 投稿番号: [132464 / 230347]
休日の時間潰しに歴史物を
朝鮮半島が李朝の元、惰眠を貪っていた頃
日本は動乱の幕末を迎えていた、そこで
維新の先駆けとなり散っていった高杉新作を
慶長二年八月、第二次長州討伐軍は十万の
大軍を擁し、長州を目指していた
迎え撃つ長州軍は約三万、圧倒的な戦力の差は
第一次長州討伐と同様、長州藩の敗北を
予感させるものであった
幕府軍司令官、老中小笠原長行は軍議の席で
壮語する
長州の者共、再び幕軍の前に
頭(こうべ)を垂れるであろう
将軍家の御威光、些かも揺るぎなし
元来実戦経験もなく官僚畑の小笠原が
司令官として指揮を取ったのは、長州藩は
戦わずして降伏するであろうという幕府の
安易な思惑であった
この思惑は見事に外れ、後々大きな禍根を
残す事になる
第一次長州討伐の後、長州藩では幕府に従順な
保守派が実権を握っており、反幕府勢力は
粛清され、多くの志士達が切腹打ち首の憂き目に
逢わされた
これに敢然と立ち向かったのが、高杉晋作であった
高杉晋作 諱(いみな)は春風 萩に生まれ
十九歳の折吉田松陰の松下村塾に入門、英才を
発輝し、久坂玄瑞と共に松門の双璧と称された
高杉は、檄を飛ばす
今や尊皇攘夷が事、火急の時なり
共に起ちて、奸物を討ち果たさん
元治元年十二月、高杉の檄文に応じて功山寺に
結集した八十余名は尊皇攘夷を掲げて決起する
この時高杉はこう述べている
長州男児の心意気、得と御覧に入れ申す
高杉は民兵組織、奇兵隊を組織し保守派の討伐に
全精力を傾けた 、この奇兵隊は正式な軍隊ではなく
農民や下級武士で構成されていた
徹底した訓練と、西洋式の装備で力を蓄え次々と
保守派を打ち破り、長州は再び倒幕派が実権を
握ったのである
我等、再び起ちて 勤皇の志、貫(つらぬ)かん
第二次長州討伐軍の主力は、九州小倉城に入城
していたそ、の兵力は約五万対して迎え撃つ
高杉奇兵隊は僅か一千、対岸の下関に布陣する
一対五十 数で圧倒的に不利な高杉は徹底した
ゲリラ戦法を取った
小倉藩の軍港、田野浦を急襲し幕府軍が用意していた
二百艘に登る船を焼き払い、同時に下関の砲台から
幕府軍の陣営に大量の砲弾を浴びせたのである
幕府軍は大混乱に陥り、初戦は高杉軍の
大勝利となった
この年は厳しい猛暑が続き、諸藩寄せ集めの
幕府軍は疲労と食料不足で戦闘意欲を失い
前線を支えるのは小倉藩だけという状況であった
その小倉藩も打撃を受け、小笠原に援軍を要請する
我が藩のみ矢面(やおもて)に立つは
納得出来かねる
然るべく、援軍を御願いしたい
援軍として、小倉城に入城したのは熊本藩であった
当時熊本藩は銃身の長い鉄砲を揃え、幕軍最強の
呼び声が高かった
その熊本藩が守る小倉城を攻めた高杉軍は
肥後勢の鉄砲の前に手痛い打撃を受けた
高杉さん、死傷者は百五十名を越えています
これ以上は無理です
分かっている、懇ろに弔い
一旦下関に引き上げよう
下関に戻った高杉は軍議を開き打開策を講じる
まず小倉藩の要所、赤坂の目前に砲台を構え
無言の圧力を掛けたのである
この砲台の威力は、先の戦いで幕府軍は骨の髄まで
思い知らされていた、無論時折の威嚇射撃も
忘れなかった
更に砲台には、篝火が焚かれ光々と夜空を
焦がしていた
これを見た幕府軍は一気に厭戦気分に襲われる
各地で幕府軍敗退の報も伝えられていた
その上将軍家茂が急死、老中小笠原長行は
江戸に引き上げてしまった
これに乗じて諸藩の軍勢も一斉に引き上げ
幕府軍は事実上敗北を喫した
小笠原の行動が、勝敗を決するものとなった
慶応二年八月一日、小倉城に火の手が上る
高杉軍に攻め込まれるのを恐れた、小倉勢が
自ら火を放ったのである
僅か千人足らずで、五万の大軍に勝利を収めた
奇兵隊高杉晋作、しかし輝きも長くはなかった
やがて持病の労咳が悪化し、小倉城炎上から
七ヵ月後、余りに短い二十九年の生涯に幕を閉じた
この小倉城の戦いは、幕府倒壊の序章となった
この後僅か一年で、明治政府が誕生するのである
高杉晋作、維新の先駆けとなった熱情の志士
そう言えるかも知れない
朝鮮半島が李朝の元、惰眠を貪っていた頃
日本は動乱の幕末を迎えていた、そこで
維新の先駆けとなり散っていった高杉新作を
慶長二年八月、第二次長州討伐軍は十万の
大軍を擁し、長州を目指していた
迎え撃つ長州軍は約三万、圧倒的な戦力の差は
第一次長州討伐と同様、長州藩の敗北を
予感させるものであった
幕府軍司令官、老中小笠原長行は軍議の席で
壮語する
長州の者共、再び幕軍の前に
頭(こうべ)を垂れるであろう
将軍家の御威光、些かも揺るぎなし
元来実戦経験もなく官僚畑の小笠原が
司令官として指揮を取ったのは、長州藩は
戦わずして降伏するであろうという幕府の
安易な思惑であった
この思惑は見事に外れ、後々大きな禍根を
残す事になる
第一次長州討伐の後、長州藩では幕府に従順な
保守派が実権を握っており、反幕府勢力は
粛清され、多くの志士達が切腹打ち首の憂き目に
逢わされた
これに敢然と立ち向かったのが、高杉晋作であった
高杉晋作 諱(いみな)は春風 萩に生まれ
十九歳の折吉田松陰の松下村塾に入門、英才を
発輝し、久坂玄瑞と共に松門の双璧と称された
高杉は、檄を飛ばす
今や尊皇攘夷が事、火急の時なり
共に起ちて、奸物を討ち果たさん
元治元年十二月、高杉の檄文に応じて功山寺に
結集した八十余名は尊皇攘夷を掲げて決起する
この時高杉はこう述べている
長州男児の心意気、得と御覧に入れ申す
高杉は民兵組織、奇兵隊を組織し保守派の討伐に
全精力を傾けた 、この奇兵隊は正式な軍隊ではなく
農民や下級武士で構成されていた
徹底した訓練と、西洋式の装備で力を蓄え次々と
保守派を打ち破り、長州は再び倒幕派が実権を
握ったのである
我等、再び起ちて 勤皇の志、貫(つらぬ)かん
第二次長州討伐軍の主力は、九州小倉城に入城
していたそ、の兵力は約五万対して迎え撃つ
高杉奇兵隊は僅か一千、対岸の下関に布陣する
一対五十 数で圧倒的に不利な高杉は徹底した
ゲリラ戦法を取った
小倉藩の軍港、田野浦を急襲し幕府軍が用意していた
二百艘に登る船を焼き払い、同時に下関の砲台から
幕府軍の陣営に大量の砲弾を浴びせたのである
幕府軍は大混乱に陥り、初戦は高杉軍の
大勝利となった
この年は厳しい猛暑が続き、諸藩寄せ集めの
幕府軍は疲労と食料不足で戦闘意欲を失い
前線を支えるのは小倉藩だけという状況であった
その小倉藩も打撃を受け、小笠原に援軍を要請する
我が藩のみ矢面(やおもて)に立つは
納得出来かねる
然るべく、援軍を御願いしたい
援軍として、小倉城に入城したのは熊本藩であった
当時熊本藩は銃身の長い鉄砲を揃え、幕軍最強の
呼び声が高かった
その熊本藩が守る小倉城を攻めた高杉軍は
肥後勢の鉄砲の前に手痛い打撃を受けた
高杉さん、死傷者は百五十名を越えています
これ以上は無理です
分かっている、懇ろに弔い
一旦下関に引き上げよう
下関に戻った高杉は軍議を開き打開策を講じる
まず小倉藩の要所、赤坂の目前に砲台を構え
無言の圧力を掛けたのである
この砲台の威力は、先の戦いで幕府軍は骨の髄まで
思い知らされていた、無論時折の威嚇射撃も
忘れなかった
更に砲台には、篝火が焚かれ光々と夜空を
焦がしていた
これを見た幕府軍は一気に厭戦気分に襲われる
各地で幕府軍敗退の報も伝えられていた
その上将軍家茂が急死、老中小笠原長行は
江戸に引き上げてしまった
これに乗じて諸藩の軍勢も一斉に引き上げ
幕府軍は事実上敗北を喫した
小笠原の行動が、勝敗を決するものとなった
慶応二年八月一日、小倉城に火の手が上る
高杉軍に攻め込まれるのを恐れた、小倉勢が
自ら火を放ったのである
僅か千人足らずで、五万の大軍に勝利を収めた
奇兵隊高杉晋作、しかし輝きも長くはなかった
やがて持病の労咳が悪化し、小倉城炎上から
七ヵ月後、余りに短い二十九年の生涯に幕を閉じた
この小倉城の戦いは、幕府倒壊の序章となった
この後僅か一年で、明治政府が誕生するのである
高杉晋作、維新の先駆けとなった熱情の志士
そう言えるかも知れない
これは メッセージ 1 (the_rich_and_smooth さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/ffckdca4h4z9qa4n5doc0a4n9adbel_1/132464.html