Re: 「世界を変える100人の日本人」
投稿者: monjujz 投稿日時: 2008/12/13 21:01 投稿番号: [129330 / 230347]
>韓国には台湾の八田與一に相当する人物はいなかったのか?
そんなわけはないです。ただ台湾と違って韓国・朝鮮ではそれらの人を歴史的に抹殺してしまった。
例えば淑明女子大という、韓国では女子大として梨花女子大に次ぐ名門女子大があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%91%E6%98%8E%E5%A5%B3%E5%AD%90%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1
ウィキペディアにもこうあります。
「1906年 - 高宗の後宮・純獻皇貴妃により韓国初の民族女性大学である「明新女学校」が設立。
1948年 - 淑明女子大学として昇格。 」
ところがこれまったくの嘘です。
私が見つけた京城日報には日本人の淵沢能恵が創立したとあります。
大学側からしてみれば、日本人が創立者の大学だと都合が悪いのでしょう。
だから事実を捏造する。この悪しき習性を断ち切らない限り、韓国人が日本から真の独立をすることは無理なのかも。
以下がその京城日報の記事です。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00474889&TYPE=HTML_FILE&POS=1
>女子教育を天職に身心を打込む 今は八十六の高齢で病床に 女子教育の母 淵沢能恵女史
わが大勝利に帰した日露大戦の余燼まだ収まらぬ明治三十八年に来鮮して以来、雨の日も風の日も孜々として育英事業に携わり、今や八
十六歳の高齢に達して病床に横はる淵沢能恵さんは、一生を学校経営、子女の教育に投じた人といえる。
そして先年病篤かった時、勲六等に叙せられた、しかし、そここまで漕ぎつけるには
血涙をしぽるような苦境に立ったことも一再ならずあったようだ、決して愚痴をこぼさぬ淵沢さんは、自分から、彼れ是れ言わぬが、第一に来鮮早々頭をうって了った
女子の教育の必要はいうまでもないが、さていよいよ学校を開く段取りにかかると、二進も三進も動けなくなった、自分の力だけで事を為そうとするから出来ぬのだと思って、それぞれ有力筋に語をもちかけて見ると、趣旨にに賛成するが−それだけの話で一向動いてはくれなかった、悲観した、といって、誰が形をつけてくれよう、そこで厳妃を総裁に仰いで日韓婦人会を創設して、双方の婦人を交際させお互の智識の啓発と、今後の女子教育について、大いに説いて見た、ついに時機到来して耳をかす人も現われ、愈よ
学校を開設することになって、李太王に校名をつけていただくことになった、すると快く『晋信館』とおつけになったが、何うも学校名としてはふさはしくない、それでこれをお返しして再び校名を御依頼したところ『曹信館は淵沢家の号にして学校の方は明新としてに何うか』とおっしゃった、これで『明新女学校』の木の香もゆかしい看板をかがけて蓋をあけたが、結果はすっかり案に相違した
大体淵沢さんが朝鮮で女子教育を施さうとしたのは、同氏の言葉をかりていえば
『日本は初め朝鮮から文化を輸入して、色々お世語になっていますから、そのお礼の意味で私の力で出来ること、つまり女子教育を普及しようと思って来鮮したのです』
というんだから、確固として動かない信念がある、如何なる障害に当面しても、それを乗越え、突き破らねばやらぬ、しかし思い叶って学校を開設して見ると、生徒はたった五名という案の相違に人知れす溜息を洩らすより仕方がなかった、そここで更に各方面を
勧誘して漸次生徒も増加した、そのうち英親王殿下(李王垠殿下)から学校財産として一千町歩の田舎を下賜されたので学校の経営に始めて本格的になり現在では五百四十七名の生徒を擁するに至った
淑明という今の校名は、李太王からおつけしていただいた『明新』は李王垠殿下の御雅号と同宇なので改めようと思っている矢先、明治四十四年十一月朝鮮教育令が実施され、内容を充実させると共に淑明女子高等普通学校と改めたものである
また卒業生の指導について卒業後、教育事業に携わるものに対しては自費を投じて奈良や東京の女子高等学校師範に入学させたが
その数二十余名にのぼっている、これらの教え子は今ずれも公私立の女子高等普通学校に教鞭をとっている、また一般卒業生のためには淑女会を組繊して、何くれとなく指導しているので慈母の如く親まれている、天職に身心を打込むとはこうう人をいうのだろう、以下略 <
そんなわけはないです。ただ台湾と違って韓国・朝鮮ではそれらの人を歴史的に抹殺してしまった。
例えば淑明女子大という、韓国では女子大として梨花女子大に次ぐ名門女子大があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%91%E6%98%8E%E5%A5%B3%E5%AD%90%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1
ウィキペディアにもこうあります。
「1906年 - 高宗の後宮・純獻皇貴妃により韓国初の民族女性大学である「明新女学校」が設立。
1948年 - 淑明女子大学として昇格。 」
ところがこれまったくの嘘です。
私が見つけた京城日報には日本人の淵沢能恵が創立したとあります。
大学側からしてみれば、日本人が創立者の大学だと都合が悪いのでしょう。
だから事実を捏造する。この悪しき習性を断ち切らない限り、韓国人が日本から真の独立をすることは無理なのかも。
以下がその京城日報の記事です。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00474889&TYPE=HTML_FILE&POS=1
>女子教育を天職に身心を打込む 今は八十六の高齢で病床に 女子教育の母 淵沢能恵女史
わが大勝利に帰した日露大戦の余燼まだ収まらぬ明治三十八年に来鮮して以来、雨の日も風の日も孜々として育英事業に携わり、今や八
十六歳の高齢に達して病床に横はる淵沢能恵さんは、一生を学校経営、子女の教育に投じた人といえる。
そして先年病篤かった時、勲六等に叙せられた、しかし、そここまで漕ぎつけるには
血涙をしぽるような苦境に立ったことも一再ならずあったようだ、決して愚痴をこぼさぬ淵沢さんは、自分から、彼れ是れ言わぬが、第一に来鮮早々頭をうって了った
女子の教育の必要はいうまでもないが、さていよいよ学校を開く段取りにかかると、二進も三進も動けなくなった、自分の力だけで事を為そうとするから出来ぬのだと思って、それぞれ有力筋に語をもちかけて見ると、趣旨にに賛成するが−それだけの話で一向動いてはくれなかった、悲観した、といって、誰が形をつけてくれよう、そこで厳妃を総裁に仰いで日韓婦人会を創設して、双方の婦人を交際させお互の智識の啓発と、今後の女子教育について、大いに説いて見た、ついに時機到来して耳をかす人も現われ、愈よ
学校を開設することになって、李太王に校名をつけていただくことになった、すると快く『晋信館』とおつけになったが、何うも学校名としてはふさはしくない、それでこれをお返しして再び校名を御依頼したところ『曹信館は淵沢家の号にして学校の方は明新としてに何うか』とおっしゃった、これで『明新女学校』の木の香もゆかしい看板をかがけて蓋をあけたが、結果はすっかり案に相違した
大体淵沢さんが朝鮮で女子教育を施さうとしたのは、同氏の言葉をかりていえば
『日本は初め朝鮮から文化を輸入して、色々お世語になっていますから、そのお礼の意味で私の力で出来ること、つまり女子教育を普及しようと思って来鮮したのです』
というんだから、確固として動かない信念がある、如何なる障害に当面しても、それを乗越え、突き破らねばやらぬ、しかし思い叶って学校を開設して見ると、生徒はたった五名という案の相違に人知れす溜息を洩らすより仕方がなかった、そここで更に各方面を
勧誘して漸次生徒も増加した、そのうち英親王殿下(李王垠殿下)から学校財産として一千町歩の田舎を下賜されたので学校の経営に始めて本格的になり現在では五百四十七名の生徒を擁するに至った
淑明という今の校名は、李太王からおつけしていただいた『明新』は李王垠殿下の御雅号と同宇なので改めようと思っている矢先、明治四十四年十一月朝鮮教育令が実施され、内容を充実させると共に淑明女子高等普通学校と改めたものである
また卒業生の指導について卒業後、教育事業に携わるものに対しては自費を投じて奈良や東京の女子高等学校師範に入学させたが
その数二十余名にのぼっている、これらの教え子は今ずれも公私立の女子高等普通学校に教鞭をとっている、また一般卒業生のためには淑女会を組繊して、何くれとなく指導しているので慈母の如く親まれている、天職に身心を打込むとはこうう人をいうのだろう、以下略 <
これは メッセージ 129322 (monjujz さん)への返信です.
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