李承晩
投稿者: pesiticider 投稿日時: 2005/08/17 16:38 投稿番号: [11015 / 230347]
●李承晩(1875〜1965)
「大韓民国」初代大統領(1948〜1960)
「李氏朝鮮」の初代李成桂の直系。「科挙」に応試するも失敗し、「培材学堂」に学び、1895年からは母校「培材学堂」の英語教師となる。
李承晩といえば、二十代の頃は李完用(「日韓併合」条約に調印した「大韓帝国」首相、「親日派」の領袖的存在)に心酔し、「李完用親衛隊」の一人として期待されていたのですがねえ・・・
それが「大韓帝国」建国三年目の1899年に「独立協会事件」に連座して逮捕され、5年間獄中生活を送ってから、ああいう屈折した性格になってしまいました。
李承晩は出獄すると直ぐに渡米し、その後1910年から1912年まで一時帰国した他は、「第二次大戦」が終わるまで、朝鮮半島には帰りませんでした。ですから李承晩は、「日韓併合時代」がどんな時代であったか、実体験としてはほとんど知らないのですよ。
さて、アメリカ滞在中の李承晩は、「ワシントン大学」「ハーバート大学」で学んだ後、最後にウッドロー・ウィルソンが学長を勤めていた「プリンストン大学」に学び、今度はウッドロー・ウィルソン学長の「民族自決論」に心酔しました。
1919年3月1日に朝鮮半島で「3.1運動」が起こる。「3.1運動」の暴動はまもなく鎮圧されましたが、その残党が上海に逃れて同年4月10日に「大韓民国臨時政府」樹立宣言を行ない、李承晩はその初代国務総理に担ぎ上げられました。「大韓民国臨時政府」には、よほど人材がいなかったということでしょうね。しかし同年8月、李承晩は「大韓民国臨時政府」首班という地位にも拘わらず、列強の狭間にある朝鮮半島では、差し当たり「民族自決」が難しいということで、「朝鮮半島はアメリカの信託統治領になるべき」と奇妙な主張を始めたのです。これには、さすがに「独立派」が激怒し、結局李承晩は辞任に追い込まれました。
また「大韓民国臨時政府」なるものは、もともと思惑も思想も異なる烏合の衆の集まりでしたから、1921年に李東輝が「上海高麗共産党」を結成して分派するなど直に分裂し、李承晩も嫌気が差して上海を去りアメリカに帰って、右翼民族主義者としての活動に専念するようになりました。
その胡散臭い李承晩の活動歴の中で、本人が自慢の種にしていたのが、1933年に「国際連盟」に乗り込み「朝鮮独立」を訴えたというものでしたが、実際は誰からも相手にされず、反応はまるでなかったとのことです。
1945年10月、「第二次大戦」が終わって二ヶ月後に、李承晩は久し振りに朝鮮半島に帰ってきました。そしてソ連占領下の北部を切り離し南部だけで独立する構想「井邑発言」を発表。
さらにライバルの金九(重慶が拠点の「大韓民国臨時政府=韓国光復軍」主席)を、刺客(安斗熙)を放って暗殺。
こうして足下を固めてから、1948年に反対派がボイコットする中、選挙を強行し圧勝、同年8月15日に「大韓民国」初代大統領に就任したということです。
なお大統領になった李承晩は、さっそく数次にわたり反対派の大規模な粛清を断行し、40万人以上を虐殺しました。
その後も苛烈極まりない独裁を続けていましたが、1960年4月19日、反李承晩の暴動が発生し、これを逃れて李承晩はハワイに亡命。その五年後に、ハワイで寂しく生涯を閉じたということです。
「大韓民国」初代大統領(1948〜1960)
「李氏朝鮮」の初代李成桂の直系。「科挙」に応試するも失敗し、「培材学堂」に学び、1895年からは母校「培材学堂」の英語教師となる。
李承晩といえば、二十代の頃は李完用(「日韓併合」条約に調印した「大韓帝国」首相、「親日派」の領袖的存在)に心酔し、「李完用親衛隊」の一人として期待されていたのですがねえ・・・
それが「大韓帝国」建国三年目の1899年に「独立協会事件」に連座して逮捕され、5年間獄中生活を送ってから、ああいう屈折した性格になってしまいました。
李承晩は出獄すると直ぐに渡米し、その後1910年から1912年まで一時帰国した他は、「第二次大戦」が終わるまで、朝鮮半島には帰りませんでした。ですから李承晩は、「日韓併合時代」がどんな時代であったか、実体験としてはほとんど知らないのですよ。
さて、アメリカ滞在中の李承晩は、「ワシントン大学」「ハーバート大学」で学んだ後、最後にウッドロー・ウィルソンが学長を勤めていた「プリンストン大学」に学び、今度はウッドロー・ウィルソン学長の「民族自決論」に心酔しました。
1919年3月1日に朝鮮半島で「3.1運動」が起こる。「3.1運動」の暴動はまもなく鎮圧されましたが、その残党が上海に逃れて同年4月10日に「大韓民国臨時政府」樹立宣言を行ない、李承晩はその初代国務総理に担ぎ上げられました。「大韓民国臨時政府」には、よほど人材がいなかったということでしょうね。しかし同年8月、李承晩は「大韓民国臨時政府」首班という地位にも拘わらず、列強の狭間にある朝鮮半島では、差し当たり「民族自決」が難しいということで、「朝鮮半島はアメリカの信託統治領になるべき」と奇妙な主張を始めたのです。これには、さすがに「独立派」が激怒し、結局李承晩は辞任に追い込まれました。
また「大韓民国臨時政府」なるものは、もともと思惑も思想も異なる烏合の衆の集まりでしたから、1921年に李東輝が「上海高麗共産党」を結成して分派するなど直に分裂し、李承晩も嫌気が差して上海を去りアメリカに帰って、右翼民族主義者としての活動に専念するようになりました。
その胡散臭い李承晩の活動歴の中で、本人が自慢の種にしていたのが、1933年に「国際連盟」に乗り込み「朝鮮独立」を訴えたというものでしたが、実際は誰からも相手にされず、反応はまるでなかったとのことです。
1945年10月、「第二次大戦」が終わって二ヶ月後に、李承晩は久し振りに朝鮮半島に帰ってきました。そしてソ連占領下の北部を切り離し南部だけで独立する構想「井邑発言」を発表。
さらにライバルの金九(重慶が拠点の「大韓民国臨時政府=韓国光復軍」主席)を、刺客(安斗熙)を放って暗殺。
こうして足下を固めてから、1948年に反対派がボイコットする中、選挙を強行し圧勝、同年8月15日に「大韓民国」初代大統領に就任したということです。
なお大統領になった李承晩は、さっそく数次にわたり反対派の大規模な粛清を断行し、40万人以上を虐殺しました。
その後も苛烈極まりない独裁を続けていましたが、1960年4月19日、反李承晩の暴動が発生し、これを逃れて李承晩はハワイに亡命。その五年後に、ハワイで寂しく生涯を閉じたということです。
これは メッセージ 11008 (kawakawakawa13 さん)への返信です.
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