ヘンドリック・ハメル。
投稿者: qapla_jup 投稿日時: 2008/06/01 09:27 投稿番号: [103570 / 230347]
ヘンドリック・ハメル(1630‐1692年)は、13年間朝鮮に幽閉され、『朝鮮
幽囚記』(東洋文庫、生田滋訳)を残したオランダ人。
ハメルはオランダ東インド会社の書記だった。1653年、交易船で日本へ
向かう途上、済州島近海で遭難した。乗組員64人のうち、ハメルを含む36人が
漂着したが、ハメルは朝鮮人との最初の遭遇をこう書いた。
午後になると大勢の人々がめいめい一本の縄切れを手に持ってやって
来ましたので、私たちは彼等が私たちを縛って殺すためにやってきたのでは
ないかと考えて、非常に恐ろしくなりました
彼らは直ちに拘引されたが、そこで同郷人ウェルテフレーと出会った。
彼もまたハメルに先立つ1627年に、日本へ向かう途上、給水のために朝鮮に
上陸したところを捕らえられたオランダ人であった。彼の時は朝鮮も日本への
送還を試みたが、キリスト教徒であることを理由に断られていた。
ウェルテフレーは朴延と名乗って朝鮮王に仕え、ただ一人当地で妻を娶り
暮らしていたが、王の命を受けてハメルらの通訳と尋問にあたった。
35名のヨーロッパ人の突然の出現は、朝鮮人の間に大きな騒ぎを引き起こした。
ハメルらは王のための一種の新奇な貢物として、漢陽の王宮へ連れて行かれた。
ハメルらは王に帰国の許可を求めたが拒絶され、幽囚の身となった。彼等は
兵士として配属され、朝鮮国王から給与を受ける身となったが、現地の慣習に
従えば、奴隷も同然だった。
耐えかねた一行のうちの2人が清の使節に日本への送還を直訴したことを
きっかけに、朝鮮政府は彼らを持て余すようになり、全羅道へ送られた。
現地での彼らの処遇は、中央から派遣される役人の意向によって大きく変化
した。時に給与が滞ったときには物乞いをして命を繋ぐこともあった。
彼らが囚われてから13年後の1666年、ハメルを含む8名はどうにか小船を
奪い、長崎県五島に辿り着き、長崎のオランダ商館経由で故国オランダへ
帰還した。他の生存者達についても、宗氏を通じて日朝間で送還の交渉が
行われ、朝鮮への残留を希望した1名を除く7名が、対馬を経由して日本へ
送られ、オランダ商館に引き渡された。
ハメルの報告書により、オランダ東インド会社は改めて朝鮮との交易を
検討したけれども、清と朝鮮の特別な関係、あるいは朝鮮と日本の外交関係に
よって見送られることとなった。
(以上、ウィキ“ヘンドリック・ハメル”の項抜粋)
カットした部分ですが、当時の朝鮮は仁祖〜孝宗〜顕宗の時代で、仁祖の
時代には清に屈服し、小中華思想に凝り固まっていた時期。
一方オランダは東インド会社でぼろ儲けしていた時期。金持ちになった
商人達をパトロンにレンブラントの『夜警』が書かれたのは、この事件の
直前ですし。国民の保護なんて概念がなく、清を刺激して儲からなくなっては
困る、と思われ、ハメルの体験記が単に冒険談と解釈されたのは当時の朝鮮に
とっては幸いですな。
それにしても、ザビエルの日本評とはエライ差(苦笑)
幽囚記』(東洋文庫、生田滋訳)を残したオランダ人。
ハメルはオランダ東インド会社の書記だった。1653年、交易船で日本へ
向かう途上、済州島近海で遭難した。乗組員64人のうち、ハメルを含む36人が
漂着したが、ハメルは朝鮮人との最初の遭遇をこう書いた。
午後になると大勢の人々がめいめい一本の縄切れを手に持ってやって
来ましたので、私たちは彼等が私たちを縛って殺すためにやってきたのでは
ないかと考えて、非常に恐ろしくなりました
彼らは直ちに拘引されたが、そこで同郷人ウェルテフレーと出会った。
彼もまたハメルに先立つ1627年に、日本へ向かう途上、給水のために朝鮮に
上陸したところを捕らえられたオランダ人であった。彼の時は朝鮮も日本への
送還を試みたが、キリスト教徒であることを理由に断られていた。
ウェルテフレーは朴延と名乗って朝鮮王に仕え、ただ一人当地で妻を娶り
暮らしていたが、王の命を受けてハメルらの通訳と尋問にあたった。
35名のヨーロッパ人の突然の出現は、朝鮮人の間に大きな騒ぎを引き起こした。
ハメルらは王のための一種の新奇な貢物として、漢陽の王宮へ連れて行かれた。
ハメルらは王に帰国の許可を求めたが拒絶され、幽囚の身となった。彼等は
兵士として配属され、朝鮮国王から給与を受ける身となったが、現地の慣習に
従えば、奴隷も同然だった。
耐えかねた一行のうちの2人が清の使節に日本への送還を直訴したことを
きっかけに、朝鮮政府は彼らを持て余すようになり、全羅道へ送られた。
現地での彼らの処遇は、中央から派遣される役人の意向によって大きく変化
した。時に給与が滞ったときには物乞いをして命を繋ぐこともあった。
彼らが囚われてから13年後の1666年、ハメルを含む8名はどうにか小船を
奪い、長崎県五島に辿り着き、長崎のオランダ商館経由で故国オランダへ
帰還した。他の生存者達についても、宗氏を通じて日朝間で送還の交渉が
行われ、朝鮮への残留を希望した1名を除く7名が、対馬を経由して日本へ
送られ、オランダ商館に引き渡された。
ハメルの報告書により、オランダ東インド会社は改めて朝鮮との交易を
検討したけれども、清と朝鮮の特別な関係、あるいは朝鮮と日本の外交関係に
よって見送られることとなった。
(以上、ウィキ“ヘンドリック・ハメル”の項抜粋)
カットした部分ですが、当時の朝鮮は仁祖〜孝宗〜顕宗の時代で、仁祖の
時代には清に屈服し、小中華思想に凝り固まっていた時期。
一方オランダは東インド会社でぼろ儲けしていた時期。金持ちになった
商人達をパトロンにレンブラントの『夜警』が書かれたのは、この事件の
直前ですし。国民の保護なんて概念がなく、清を刺激して儲からなくなっては
困る、と思われ、ハメルの体験記が単に冒険談と解釈されたのは当時の朝鮮に
とっては幸いですな。
それにしても、ザビエルの日本評とはエライ差(苦笑)
これは メッセージ 103552 (elgfaret さん)への返信です.
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