先日の朝日のテレビ滑稽だった。
投稿者: igutikeigi771 投稿日時: 2008/05/08 02:43 投稿番号: [100361 / 230347]
中国五輪リレー批判でチベットに対する弾圧を取り上げていたがそのパネルに、「中国は朝鮮の高句麗の歴史をパクロウとしている」と赤い太字で掲示していたが、どうもあれは朝日の在日の仕業だろうと思ってが、結局誰も読み上げることも、話題にすることをしなかった。
今の朝鮮は百済文化も高句麗文化とも全く無関係ということだ。
今の朝鮮人は新羅人が百済。高句麗を破って追い出した勢力だから。
新羅の軍隊は半島にいた民族とは言葉が違っていたといわれている。
http://toron.chu.jp/kodai/to660/boumei.html
高句麗と百済の王家は同族。
百済と高句麗が亡びた時に、両国の多くの遺民が日本を目指した。
663年9月、白村江で日本は唐・新羅連合軍の前に完敗した。
かくて百済は、永久にこの世から消え、
朝鮮半島の歴史から言って、残された遺民は虐殺されるか、新羅の奴隷になるか、
いずれにせよ過酷な運命が待ち受けていた事は想像に難くない。
ところが彼らには一条の希望があった。
他ならぬ救援軍を差し向けてくれた日本に亡命する事である。
こうして、数千とも数万とも言われる百済の遺民は大挙して日本に向かった。
『日本書紀』は、
「百済の遺民20万人程度が、白馬江、錦江、海浜を伝わって日本へ渡ってきた」
ことを詳しく伝えている。
(【遺民】 いみん=国が滅びた後に生き残っている民)
百済の救援の陣中で亡くなった斉明天皇の後を継いだ天智天皇(中大兄皇子)は、
百済の亡命者に土地を与え、税金を免除して、官職を給して、これを厚く庇護した。
『日本書紀』から、その関係の記事を拾ってみよう
664年 百済王子善光を難波に居住させる(百済王家の始まり)
665年 百済の亡命遺民四百余名を近江国神崎郡に居住させ、田を支給する
666年 百済の亡命遺民二千余名を東国に居住させ、自活させる
669年 百済の亡命者七百余名を近江国蒲生郡に移す
670年 天智天皇、近江国蒲生郡に行幸する
また、高句麗の遺民一万余名は、
若光王の指揮のもとで援軍を頼みに日本へ向かったのである。
『続日本紀』は、
「元正天皇霊亀二年(716)、駿河、甲斐、相模、下総、常陸、下野の
七ヶ国在住の高麗人(高句麗人)1799人を武蔵国に遷し、高麗郡を置く」と記している。
高麗王が武蔵野には入ったのは、
高句麗が滅亡してから40年後だったから、王もかなりの高齢であったろう。
故国を去る時は、日本の助けを借り、
援軍を率いて祖国に戻って高句麗王国を再興しようと、心中で固く期した事だろう。
しかし、王は王国回復の希望もまったく絶えて、武蔵野の一隅に、あえなく没した。
今の朝鮮は百済文化も高句麗文化とも全く無関係ということだ。
今の朝鮮人は新羅人が百済。高句麗を破って追い出した勢力だから。
新羅の軍隊は半島にいた民族とは言葉が違っていたといわれている。
http://toron.chu.jp/kodai/to660/boumei.html
高句麗と百済の王家は同族。
百済と高句麗が亡びた時に、両国の多くの遺民が日本を目指した。
663年9月、白村江で日本は唐・新羅連合軍の前に完敗した。
かくて百済は、永久にこの世から消え、
朝鮮半島の歴史から言って、残された遺民は虐殺されるか、新羅の奴隷になるか、
いずれにせよ過酷な運命が待ち受けていた事は想像に難くない。
ところが彼らには一条の希望があった。
他ならぬ救援軍を差し向けてくれた日本に亡命する事である。
こうして、数千とも数万とも言われる百済の遺民は大挙して日本に向かった。
『日本書紀』は、
「百済の遺民20万人程度が、白馬江、錦江、海浜を伝わって日本へ渡ってきた」
ことを詳しく伝えている。
(【遺民】 いみん=国が滅びた後に生き残っている民)
百済の救援の陣中で亡くなった斉明天皇の後を継いだ天智天皇(中大兄皇子)は、
百済の亡命者に土地を与え、税金を免除して、官職を給して、これを厚く庇護した。
『日本書紀』から、その関係の記事を拾ってみよう
664年 百済王子善光を難波に居住させる(百済王家の始まり)
665年 百済の亡命遺民四百余名を近江国神崎郡に居住させ、田を支給する
666年 百済の亡命遺民二千余名を東国に居住させ、自活させる
669年 百済の亡命者七百余名を近江国蒲生郡に移す
670年 天智天皇、近江国蒲生郡に行幸する
また、高句麗の遺民一万余名は、
若光王の指揮のもとで援軍を頼みに日本へ向かったのである。
『続日本紀』は、
「元正天皇霊亀二年(716)、駿河、甲斐、相模、下総、常陸、下野の
七ヶ国在住の高麗人(高句麗人)1799人を武蔵国に遷し、高麗郡を置く」と記している。
高麗王が武蔵野には入ったのは、
高句麗が滅亡してから40年後だったから、王もかなりの高齢であったろう。
故国を去る時は、日本の助けを借り、
援軍を率いて祖国に戻って高句麗王国を再興しようと、心中で固く期した事だろう。
しかし、王は王国回復の希望もまったく絶えて、武蔵野の一隅に、あえなく没した。
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