昔はよかったが
投稿者: zheng_zhang1961 投稿日時: 2005/09/24 20:53 投稿番号: [97293 / 196466]
人類初の世界一周は中国人?
2002年5月2日 田中 宇
歴史の教科書では、人類で初めて世界一周の航海をしたのは1522年、マゼランのスペイン艦隊だったということになっている。しかし最近、マゼランよりも100年ほど前の1423年ごろ、中国人の艦隊が世界一周していたという調査結果をイギリス人の研究者が発表し、論争を巻き起こした。
新説によると、世界初の世界一周をしたといわれているのは、中国の明朝時代の朝廷に使えていた大臣級の有力者だった鄭和に率いられた艦隊だった。鄭和の艦隊は1405―33年に7回の遠征を行い、最盛期には300隻以上の大編成で航海していたと伝えられている。これらの遠征中、艦隊は中国からインド洋を通ってアフリカ東海岸までは行ったものの、そこから引き返したため、世界一周はしていないとされていた。
鄭和の艦隊は、天体の角度を測定する装置である六分儀を使って自らの船の位置を記録しながら航海していたが、コンピューターによるシミュレーションで当時の南十字星などの位置を再現し、鄭和の航海記録と照らし合わせたところ、オーストラリアや南極、南北アメリカの沿岸などの場所が浮かび上がった。
メンジースは、カリブ海やオーストラリアの周辺で巨大な古い中国の難破船が発見されているが、これらは鄭和の艦隊の一部だった可能性がある、と指摘している。また彼は、イタリアのベネチアでは1428年にアフリカや南北アメリカ、オーストラリアを含めた正確な世界地図が存在していたことから、この地図は鄭和の航海記録をもとに中国で作られ、シルクロードの交易を経てベネチアに運ばれたに違いないと主張している。
ヨーロッパ勢より30倍大きな船
鄭和の航海は、当時の明朝の国家的な大事業だった。第1回の航海の2年前、皇帝からの命令で福建省や江蘇省などの港に造船所が作られ、福建では137隻、江蘇では200隻の造船が命じられた。航海が始まった後の3年間には、さらに1700隻の建造が進められた。これらの船は最大で長さ140メートル、3000トンの大型船だった。マゼラン艦隊でただ一隻、途中で沈まず世界一周に成功したビクトリア号はわずか80トン、コロンブスがアメリカ「発見」の航海で使ったサンタ・マリア号も80トン(長さ24メートル)だったから、中国勢はヨーロッパ勢より30倍以上大きな船を作れたことになる。
当時の中国は、造船技術そのものがヨーロッパよりかなり進んでいた。大きな船の造船や修繕にはドックを使う必要があるが、中国では10世紀にドックが作られていたのに対し、ヨーロッパでは15世紀になってイギリスで作られたのが最初である。造船技術だけでなく技術や制度の多くの面で、そのころの中国はヨーロッパより進んでいた。(関連記事)
それだけでなく、明の朝廷は大航海の期間中にはさかんに造船を奨励したのに、航海が終わった1436年ごろから造船や海上貿易に対して消極的になった。1500年には2本マスト以上の船を作ることが禁じられ、1525年には海外渡航できる外洋船を取り壊すよう命令が下った。中国は、鄭和の遠征からわずか100年で「鎖国」と「海上貿易禁止」の国に転じていた。
中国は冊封した周辺国の内政には干渉せず、しかも財宝や中国産の絹製品、陶磁器など、当時の世界では最高級品とされた品々を贈った。周辺国としては、中国皇帝の家臣になるという窮屈さはあったが、それを上回る物質的な恩恵を受けることができた。
冊封体制は、唐の時代まで中国外交の基本体制だったが、その後の宋の時代には王朝が弱かったために冊封体制がとれず、その次の元の時代にはモンゴル人という異民族による支配だっため採用されなかった。冊封体制は、明の時代になって復活し、永楽帝の時代に拡大された。朝鮮、ベトナム、琉球(沖縄)など古くからの冊封国のほか、シャム(タイ)、チベット、ビルマ、マラッカ(マレーシア)、それから足利義満の室町幕府も「日本国王」の称号を与えられ、冊封国となった。(足利義満が冊封を受けたのは、自分が「国王」になり、天皇の力を弱めるためだったといわれている)
進言した。
▼鄭和より前にアラブ商人が世界一周していたかも
また中国の学会では、すでに1980年代に「鄭和の艦隊はアフリカ南端の喜望峰を回り、アフリカ西海岸まで達していた」という指摘がなされ、鄭和がどこまで行ったのかということについて、ずっと議論が続けられてきたという。(
2002年5月2日 田中 宇
歴史の教科書では、人類で初めて世界一周の航海をしたのは1522年、マゼランのスペイン艦隊だったということになっている。しかし最近、マゼランよりも100年ほど前の1423年ごろ、中国人の艦隊が世界一周していたという調査結果をイギリス人の研究者が発表し、論争を巻き起こした。
新説によると、世界初の世界一周をしたといわれているのは、中国の明朝時代の朝廷に使えていた大臣級の有力者だった鄭和に率いられた艦隊だった。鄭和の艦隊は1405―33年に7回の遠征を行い、最盛期には300隻以上の大編成で航海していたと伝えられている。これらの遠征中、艦隊は中国からインド洋を通ってアフリカ東海岸までは行ったものの、そこから引き返したため、世界一周はしていないとされていた。
鄭和の艦隊は、天体の角度を測定する装置である六分儀を使って自らの船の位置を記録しながら航海していたが、コンピューターによるシミュレーションで当時の南十字星などの位置を再現し、鄭和の航海記録と照らし合わせたところ、オーストラリアや南極、南北アメリカの沿岸などの場所が浮かび上がった。
メンジースは、カリブ海やオーストラリアの周辺で巨大な古い中国の難破船が発見されているが、これらは鄭和の艦隊の一部だった可能性がある、と指摘している。また彼は、イタリアのベネチアでは1428年にアフリカや南北アメリカ、オーストラリアを含めた正確な世界地図が存在していたことから、この地図は鄭和の航海記録をもとに中国で作られ、シルクロードの交易を経てベネチアに運ばれたに違いないと主張している。
ヨーロッパ勢より30倍大きな船
鄭和の航海は、当時の明朝の国家的な大事業だった。第1回の航海の2年前、皇帝からの命令で福建省や江蘇省などの港に造船所が作られ、福建では137隻、江蘇では200隻の造船が命じられた。航海が始まった後の3年間には、さらに1700隻の建造が進められた。これらの船は最大で長さ140メートル、3000トンの大型船だった。マゼラン艦隊でただ一隻、途中で沈まず世界一周に成功したビクトリア号はわずか80トン、コロンブスがアメリカ「発見」の航海で使ったサンタ・マリア号も80トン(長さ24メートル)だったから、中国勢はヨーロッパ勢より30倍以上大きな船を作れたことになる。
当時の中国は、造船技術そのものがヨーロッパよりかなり進んでいた。大きな船の造船や修繕にはドックを使う必要があるが、中国では10世紀にドックが作られていたのに対し、ヨーロッパでは15世紀になってイギリスで作られたのが最初である。造船技術だけでなく技術や制度の多くの面で、そのころの中国はヨーロッパより進んでいた。(関連記事)
それだけでなく、明の朝廷は大航海の期間中にはさかんに造船を奨励したのに、航海が終わった1436年ごろから造船や海上貿易に対して消極的になった。1500年には2本マスト以上の船を作ることが禁じられ、1525年には海外渡航できる外洋船を取り壊すよう命令が下った。中国は、鄭和の遠征からわずか100年で「鎖国」と「海上貿易禁止」の国に転じていた。
中国は冊封した周辺国の内政には干渉せず、しかも財宝や中国産の絹製品、陶磁器など、当時の世界では最高級品とされた品々を贈った。周辺国としては、中国皇帝の家臣になるという窮屈さはあったが、それを上回る物質的な恩恵を受けることができた。
冊封体制は、唐の時代まで中国外交の基本体制だったが、その後の宋の時代には王朝が弱かったために冊封体制がとれず、その次の元の時代にはモンゴル人という異民族による支配だっため採用されなかった。冊封体制は、明の時代になって復活し、永楽帝の時代に拡大された。朝鮮、ベトナム、琉球(沖縄)など古くからの冊封国のほか、シャム(タイ)、チベット、ビルマ、マラッカ(マレーシア)、それから足利義満の室町幕府も「日本国王」の称号を与えられ、冊封国となった。(足利義満が冊封を受けたのは、自分が「国王」になり、天皇の力を弱めるためだったといわれている)
進言した。
▼鄭和より前にアラブ商人が世界一周していたかも
また中国の学会では、すでに1980年代に「鄭和の艦隊はアフリカ南端の喜望峰を回り、アフリカ西海岸まで達していた」という指摘がなされ、鄭和がどこまで行ったのかということについて、ずっと議論が続けられてきたという。(
これは メッセージ 97288 (student_koshi さん)への返信です.
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