>>日本人の中国敵視
投稿者: tyottpari 投稿日時: 2005/06/06 13:42 投稿番号: [82830 / 196466]
片のついたことを、何度も蒸し返す輩が繰り返しあらわれてくるのは、なんともうっとーしい!!
わたしたちがなにを考えなければならないか、いまいちどふれておきましょう。
資本主義的侵略というものは、大陸発見時代のそれと違って、なにも占領地から奴隷をかき集めるために行なうわけではないのです。
資本主義的侵略は、自国の生産諸関係を占領地へも普遍化しようとするのであり、
それが「一時的」「表面的」には「発展」と映ることもあります。
だからといって、それが占領地を「解放」したり、「占領地住民」への「福祉」であったりするわけではないのです。
宗主国にとって「都合のいい」限りにおいて、「発展」を享受させるに過ぎません。
ところが占領地の文化・国民性などはことごとく踏みつぶされ、
占領地人民の主権はゆがめられ、抑圧され、「占領民」として差別され、
必要に迫られれば「強制的」に住所移転させられたり、労働を強制されたりするのです。
われわれが「かの戦争」を考え、「反省」するのはなぜか?
帝国主義段階にある資本主義とは、不均等発展を競争原理として、「戦争の必然性」をその本質とするものであり、
帝国主義国国民としてのわれわれは、つねに「侵略の先兵」として存在しているのです。
そしてわたしたちを「侵略先」の人民から見れば、「侵略者」であり、「差別者」であり、「収奪者」にほかなりません。
そういうものとして、われわれはここに、つまり日本に「生」をうけているのです。
「戦争」を考える意味とは、そのような「場所的立場」をふまえ、自国の行なうあらゆる「戦争」に対して「反対する」!!
この一点にあります。
われわれにとって「自国のやる戦争」とはつねに「侵略戦争」であり、「帝国主義国間戦争」にほかなりません。
これは「戦争」であるかぎり、人殺しであり、差別であり、
人間の本源的な「生きる」という観点からすれば、「反人間的行為」なのです。
そしてなにより、その「反人間的行為」を「国民たるわれわれ自身」が担わされるのです。
幸か不幸か、資本主義というものは「自由平等博愛」を「スローガン」にし、
われわれにも「一片の自由」が与えられているかのように見えます。
したがって、その「自由」をまさに逆手にとって、この「反人間的行為」にたいして、
人間として、人間の原則的立場に立って、断固として「NON」と言わなければなりません。
そして、「戦争」を美化したり、「戦争」で行われた「反人間的行為」を美化したり、
またそれをもって「侵略」の事実を否定したりするような、
そうした策動に対して徹底的に反対しなければなりません。
かつて日本がやったところの「侵略戦争」に対して、いまさかんにそれを「侵略ではなかった」とか「アジアの解放のためにやった」とか否定したり、美化しようとしたりする「動き」がみられます。
この「動き」の「意味」や「意義」とはなんでしょうか?
それはふたたび「いつかきた道」に踏み出そうとすることにほかなりません。
いまやっきとなってすすめられている小泉ネオファシストによる政策の、いわば民間レベルの露払いを勤めることにほかなりません。
かの「ニューヨークテロル」以来、日本人の中に「危機意識」が起こり、
まさに「戦争国家体制」を打ち固めるには持って来いの好機が訪れていると支配階級権力者たちは考えているのです。
そしてまた愚かな「飼い犬」たちが、「銃をとれ」と騒いでもいます。
あらゆる戦争に反対し、差別に反対し、人間の生きる権利、「いのち」を大切にしようとするならば、
「テロ撲滅」戦争にも反対し、「侵略」に反対し、「軍備」に反対し、またそれを肯定したり美化しようとしたりする動きに反対し、
「自国帝国主義」に対して人間として対決しなければならないのです。
したがってわれわれにとっては「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」をいまさら問題にすることの意義はありません。
「戦争」とはそのような「反人間的行為」が日常的に行われるものだということさえ押さえておけば十分なのです。
それをいまさら「なかった」などというのは、まさに「戦争」を美化し、これから再び「侵略」するための「城内平和構築」のための、国民への「侵略イデオロギー流布」のための「策動」にほかなりません。
つまり、人間として「生きる」ことを否定するものにほかなりません。
すこしでも「人間の心」があるならば、あらゆる「戦争」に反対し、あらゆる「差別」に反対し、
このような「侵略」を美化し「銃をとれ」と煽動するような動きに対して、
人間として反対しなければならないのです。
それが「侵略国国民」としての責務であ\xA4
わたしたちがなにを考えなければならないか、いまいちどふれておきましょう。
資本主義的侵略というものは、大陸発見時代のそれと違って、なにも占領地から奴隷をかき集めるために行なうわけではないのです。
資本主義的侵略は、自国の生産諸関係を占領地へも普遍化しようとするのであり、
それが「一時的」「表面的」には「発展」と映ることもあります。
だからといって、それが占領地を「解放」したり、「占領地住民」への「福祉」であったりするわけではないのです。
宗主国にとって「都合のいい」限りにおいて、「発展」を享受させるに過ぎません。
ところが占領地の文化・国民性などはことごとく踏みつぶされ、
占領地人民の主権はゆがめられ、抑圧され、「占領民」として差別され、
必要に迫られれば「強制的」に住所移転させられたり、労働を強制されたりするのです。
われわれが「かの戦争」を考え、「反省」するのはなぜか?
帝国主義段階にある資本主義とは、不均等発展を競争原理として、「戦争の必然性」をその本質とするものであり、
帝国主義国国民としてのわれわれは、つねに「侵略の先兵」として存在しているのです。
そしてわたしたちを「侵略先」の人民から見れば、「侵略者」であり、「差別者」であり、「収奪者」にほかなりません。
そういうものとして、われわれはここに、つまり日本に「生」をうけているのです。
「戦争」を考える意味とは、そのような「場所的立場」をふまえ、自国の行なうあらゆる「戦争」に対して「反対する」!!
この一点にあります。
われわれにとって「自国のやる戦争」とはつねに「侵略戦争」であり、「帝国主義国間戦争」にほかなりません。
これは「戦争」であるかぎり、人殺しであり、差別であり、
人間の本源的な「生きる」という観点からすれば、「反人間的行為」なのです。
そしてなにより、その「反人間的行為」を「国民たるわれわれ自身」が担わされるのです。
幸か不幸か、資本主義というものは「自由平等博愛」を「スローガン」にし、
われわれにも「一片の自由」が与えられているかのように見えます。
したがって、その「自由」をまさに逆手にとって、この「反人間的行為」にたいして、
人間として、人間の原則的立場に立って、断固として「NON」と言わなければなりません。
そして、「戦争」を美化したり、「戦争」で行われた「反人間的行為」を美化したり、
またそれをもって「侵略」の事実を否定したりするような、
そうした策動に対して徹底的に反対しなければなりません。
かつて日本がやったところの「侵略戦争」に対して、いまさかんにそれを「侵略ではなかった」とか「アジアの解放のためにやった」とか否定したり、美化しようとしたりする「動き」がみられます。
この「動き」の「意味」や「意義」とはなんでしょうか?
それはふたたび「いつかきた道」に踏み出そうとすることにほかなりません。
いまやっきとなってすすめられている小泉ネオファシストによる政策の、いわば民間レベルの露払いを勤めることにほかなりません。
かの「ニューヨークテロル」以来、日本人の中に「危機意識」が起こり、
まさに「戦争国家体制」を打ち固めるには持って来いの好機が訪れていると支配階級権力者たちは考えているのです。
そしてまた愚かな「飼い犬」たちが、「銃をとれ」と騒いでもいます。
あらゆる戦争に反対し、差別に反対し、人間の生きる権利、「いのち」を大切にしようとするならば、
「テロ撲滅」戦争にも反対し、「侵略」に反対し、「軍備」に反対し、またそれを肯定したり美化しようとしたりする動きに反対し、
「自国帝国主義」に対して人間として対決しなければならないのです。
したがってわれわれにとっては「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」をいまさら問題にすることの意義はありません。
「戦争」とはそのような「反人間的行為」が日常的に行われるものだということさえ押さえておけば十分なのです。
それをいまさら「なかった」などというのは、まさに「戦争」を美化し、これから再び「侵略」するための「城内平和構築」のための、国民への「侵略イデオロギー流布」のための「策動」にほかなりません。
つまり、人間として「生きる」ことを否定するものにほかなりません。
すこしでも「人間の心」があるならば、あらゆる「戦争」に反対し、あらゆる「差別」に反対し、
このような「侵略」を美化し「銃をとれ」と煽動するような動きに対して、
人間として反対しなければならないのです。
それが「侵略国国民」としての責務であ\xA4
これは メッセージ 82821 (tyottpari さん)への返信です.
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