ロシアが悪い
投稿者: dr_masirito_junitirou 投稿日時: 2005/04/17 10:40 投稿番号: [58680 / 196466]
1904年
日露戦争(〜1905)
1900年に中国での義和団の乱が満州に波及すると、ロシアは大軍を満州各地に進駐させ、1901年9月に各国間で「義和団事件最終議定書」が調印された後も条件を付けて撤兵しなかった。
1901年10月以降に中国とロシアの間で撤兵についての交渉が続けられたが、日英同盟が1902年1月に調印され2月に発表されると、ロシアはやっと清国との間に満州撤兵条約を結んだ。その内容は、6か月ごとの三段階に分けて撤兵を行うというもので、三段階の期限は1902年10月8日、1903年4月8日、1903年10月8日であった。
ロシアは、第一段階の1902年10月8日の撤兵は行ったが、第二段階の1903年4月8日の撤兵は行わなかった。
日本はロシアとの直接交渉にのりだした。1903年8月12日、日本の最初の協定基礎案がロシアに示された。その内容は、「朝鮮では日本が、満州ではロシアが優越権あるいは特殊利益をもつ」とする内容だったが、同年10月3日に提出されたロシアの対案は「韓国の北緯39度以北を中立地帯とし、満州はロシアが全権を握る」という内容であった。
また、日本は、日英同盟の締結につづき、アメリカと歩調を合わせて清国との追加通商条約の締結交渉を進めていた。清国は、日本に対して大東溝(だいとうこう)の開港と奉天(ほうてん。現在の瀋陽)の開市を行い、アメリカに対して安東(あんとう)の開港と奉天の開市を行なうというもので、また、この二つの条約の調印日は、ロシアの満州からの撤兵最終期限である1903年10月8日であった。
こうして、日本は、満州に対しても権益を持つこととなった。一方、アメリカは、中国に対する門戸開放を実現した。
1903年10月8日の追加通商条約の調印により大東溝と安東開港と奉天の開市が確定すると、ロシアは10月28日に兵力をもって奉天を占領し清国軍隊を城外に退去させた。
その後も日本とロシアの交渉が続けられたが、交渉は不調に終わり、ロシアは軍隊を南満州から鴨緑江方面に集中し、極東およびシベリアにある軍隊に動員令を下した。1904年2月6日に、日本はロシアとの国交を断絶。同年2月8日、日本艦隊が朝鮮半島西部の仁川沖でロシア艦隊を砲撃し、同日夕刻には日本の駆逐艦隊が旅順にせまってロシア艦隊を奇襲した。翌9日にはふたたび仁川沖で海戦が行われた。日本がロシアに宣戦布告したのは、その翌日の1904年2月10日であった。
1900年に中国での義和団の乱が満州に波及すると、ロシアは大軍を満州各地に進駐させ、1901年9月に各国間で「義和団事件最終議定書」が調印された後も条件を付けて撤兵しなかった。
1901年10月以降に中国とロシアの間で撤兵についての交渉が続けられたが、日英同盟が1902年1月に調印され2月に発表されると、ロシアはやっと清国との間に満州撤兵条約を結んだ。その内容は、6か月ごとの三段階に分けて撤兵を行うというもので、三段階の期限は1902年10月8日、1903年4月8日、1903年10月8日であった。
ロシアは、第一段階の1902年10月8日の撤兵は行ったが、第二段階の1903年4月8日の撤兵は行わなかった。
日本はロシアとの直接交渉にのりだした。1903年8月12日、日本の最初の協定基礎案がロシアに示された。その内容は、「朝鮮では日本が、満州ではロシアが優越権あるいは特殊利益をもつ」とする内容だったが、同年10月3日に提出されたロシアの対案は「韓国の北緯39度以北を中立地帯とし、満州はロシアが全権を握る」という内容であった。
また、日本は、日英同盟の締結につづき、アメリカと歩調を合わせて清国との追加通商条約の締結交渉を進めていた。清国は、日本に対して大東溝(だいとうこう)の開港と奉天(ほうてん。現在の瀋陽)の開市を行い、アメリカに対して安東(あんとう)の開港と奉天の開市を行なうというもので、また、この二つの条約の調印日は、ロシアの満州からの撤兵最終期限である1903年10月8日であった。
こうして、日本は、満州に対しても権益を持つこととなった。一方、アメリカは、中国に対する門戸開放を実現した。
1903年10月8日の追加通商条約の調印により大東溝と安東開港と奉天の開市が確定すると、ロシアは10月28日に兵力をもって奉天を占領し清国軍隊を城外に退去させた。
その後も日本とロシアの交渉が続けられたが、交渉は不調に終わり、ロシアは軍隊を南満州から鴨緑江方面に集中し、極東およびシベリアにある軍隊に動員令を下した。1904年2月6日に、日本はロシアとの国交を断絶。同年2月8日、日本艦隊が朝鮮半島西部の仁川沖でロシア艦隊を砲撃し、同日夕刻には日本の駆逐艦隊が旅順にせまってロシア艦隊を奇襲した。翌9日にはふたたび仁川沖で海戦が行われた。日本がロシアに宣戦布告したのは、その翌日の1904年2月10日であった。
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