『宋教仁研究 清末民発の政治と思想』
投稿者: hangyosyufu 投稿日時: 2005/03/08 02:07 投稿番号: [44247 / 196466]
片倉芳和(清流出版)
孫文がもっとも頼りにした辛亥革命の志士。宮崎滔天が「孫文より見込みがある」と言った話も伝わっている宋教仁。
かれは、しかしながら日本の戦後の中国研究家のあいだでさえ、長い間忘れられていた。
宋教仁は湖南省桃源県の産まれ。辛亥革命成立後、孫文を葬ろうとした袁世凱の刺客によって暗殺された。上海駅頭である。
その襲撃は孫文をして二度目の日本亡命を促し、第二革命の炎の導火線となった。
打倒清は打倒袁世凱になった。
片倉氏は長い年月を資料集めに奔走されて、こつこつと第一次資料を収集され、この誰も省みなかった謎の革命家の一生を鮮やかに描いてみせる。労作である。
湘南から日本へ留学した人は少ないにもかかわらず、東京で密かにあつまった革命同志の「中国同盟会」の結成準備大会は79名が参加した。そのうちの湘南出身者が20名も参加していた!
「1905年から1907年まで東京の同盟会統計によると157名に達し各省のなかで最大の数」(本書7p)だった。
湘南人は燃えやすい性格なのか、それとも都に遠い遠隔地であるゆえの浪漫主義がそうさせるのか。湖南省はしかし、毛沢東、劉少奇など多くの革命家を輩出させる土地であり、近年は豪腕宰相として有名な朱容基前首相もいる。貧困の農作地帯で封建的で、それゆえにこそ嘗ては多くの農家、豪農らは子女を科挙試験に合格させるため、必死になって教育を行った。
さて宋教仁は1904年から、じつに6年間も日本に留学していた。この間に革命同盟組織の結成に奔走し、孫文の信頼厚く、しかも宮崎滔天、内田良平らからも信頼されていた。当時、中国革命の舞台は日本だった。日露戦争勝利の近代国家、明治維新の成功に学ぼうと一万人以上の中国人留学生で溢れた。
宋は同盟会支部結成のために一時的に満州へ赴いた記録が残るが、あとは筆名、偽名をおおく使い分け日本の官憲の監視をかいくぐって活動した。留学中は宮崎滔天の家に数ヶ月滞在したこともある。東京では『資治通鑑』や『読史方興紀要』などが重視されたのは「中国歴代治乱の根元とその章典制度の変革から国境の要塞や地理、沿革まで」学ぶことが出来たからだ。
本書は、近年発見された多くの書類、外交文書から、宋の活躍をあぶり出していく。
中国同盟会成立に粉骨砕身、睡眠を惜しんで邁進していた宋教仁は神経を病み、田端の精神病院に入院した。宋を見舞った黄尊三は、「いまの偽政府(清)についてはただ押し潰すの一手あるのみ」と過激な檄をとばしたという。その記述がある日記もでてきたのだ。
1910年、宋は多くの同士らと祖国へ帰った。辛亥革命で宋教仁は最初、孫文臨時大総統(大統領)のもとで法制局長に抜擢をうけ、ついで袁世凱の唐紹儀内閣で農林総長、この間、革命主体の中国同盟会を国民党に組織替えしようとした。
国民党の成立により、宋は孫文理事長の代理(国民党理事長代理)として「実権を握り、(中華)民国最初の国会議員選挙を指導し、国民党を第一党として勝利させた。この結果、宋を国務総理とする内閣が成立するかに思われたとき、袁世凱により1913年暗殺された」(本書57p)。
事実上、民主諸派を糾合し「中国国民党」を誕生させた影の実力者は宋教仁であり、孫文は飾りに過ぎなかった。日本の孫文支援者らも客観的には宋教仁を高く評価していたし、宋が日本を離れるときに送別会を開いたのは、内田良平だった。
本書でもうひとつ歴史のミステリー部分のおもしろい箇所を教えられた。宋を暗殺したのは袁世凱のはなった、カネで転ぶ政治ゴロ。暗殺後、この犯人の口を封じるため新たな暗殺が行われ、されにその暗殺者も、毒をもられて殺された。証拠は消えた。ケネディ暗殺の謎に似通った影の歴史がある。
孫文がもっとも頼りにした辛亥革命の志士。宮崎滔天が「孫文より見込みがある」と言った話も伝わっている宋教仁。
かれは、しかしながら日本の戦後の中国研究家のあいだでさえ、長い間忘れられていた。
宋教仁は湖南省桃源県の産まれ。辛亥革命成立後、孫文を葬ろうとした袁世凱の刺客によって暗殺された。上海駅頭である。
その襲撃は孫文をして二度目の日本亡命を促し、第二革命の炎の導火線となった。
打倒清は打倒袁世凱になった。
片倉氏は長い年月を資料集めに奔走されて、こつこつと第一次資料を収集され、この誰も省みなかった謎の革命家の一生を鮮やかに描いてみせる。労作である。
湘南から日本へ留学した人は少ないにもかかわらず、東京で密かにあつまった革命同志の「中国同盟会」の結成準備大会は79名が参加した。そのうちの湘南出身者が20名も参加していた!
「1905年から1907年まで東京の同盟会統計によると157名に達し各省のなかで最大の数」(本書7p)だった。
湘南人は燃えやすい性格なのか、それとも都に遠い遠隔地であるゆえの浪漫主義がそうさせるのか。湖南省はしかし、毛沢東、劉少奇など多くの革命家を輩出させる土地であり、近年は豪腕宰相として有名な朱容基前首相もいる。貧困の農作地帯で封建的で、それゆえにこそ嘗ては多くの農家、豪農らは子女を科挙試験に合格させるため、必死になって教育を行った。
さて宋教仁は1904年から、じつに6年間も日本に留学していた。この間に革命同盟組織の結成に奔走し、孫文の信頼厚く、しかも宮崎滔天、内田良平らからも信頼されていた。当時、中国革命の舞台は日本だった。日露戦争勝利の近代国家、明治維新の成功に学ぼうと一万人以上の中国人留学生で溢れた。
宋は同盟会支部結成のために一時的に満州へ赴いた記録が残るが、あとは筆名、偽名をおおく使い分け日本の官憲の監視をかいくぐって活動した。留学中は宮崎滔天の家に数ヶ月滞在したこともある。東京では『資治通鑑』や『読史方興紀要』などが重視されたのは「中国歴代治乱の根元とその章典制度の変革から国境の要塞や地理、沿革まで」学ぶことが出来たからだ。
本書は、近年発見された多くの書類、外交文書から、宋の活躍をあぶり出していく。
中国同盟会成立に粉骨砕身、睡眠を惜しんで邁進していた宋教仁は神経を病み、田端の精神病院に入院した。宋を見舞った黄尊三は、「いまの偽政府(清)についてはただ押し潰すの一手あるのみ」と過激な檄をとばしたという。その記述がある日記もでてきたのだ。
1910年、宋は多くの同士らと祖国へ帰った。辛亥革命で宋教仁は最初、孫文臨時大総統(大統領)のもとで法制局長に抜擢をうけ、ついで袁世凱の唐紹儀内閣で農林総長、この間、革命主体の中国同盟会を国民党に組織替えしようとした。
国民党の成立により、宋は孫文理事長の代理(国民党理事長代理)として「実権を握り、(中華)民国最初の国会議員選挙を指導し、国民党を第一党として勝利させた。この結果、宋を国務総理とする内閣が成立するかに思われたとき、袁世凱により1913年暗殺された」(本書57p)。
事実上、民主諸派を糾合し「中国国民党」を誕生させた影の実力者は宋教仁であり、孫文は飾りに過ぎなかった。日本の孫文支援者らも客観的には宋教仁を高く評価していたし、宋が日本を離れるときに送別会を開いたのは、内田良平だった。
本書でもうひとつ歴史のミステリー部分のおもしろい箇所を教えられた。宋を暗殺したのは袁世凱のはなった、カネで転ぶ政治ゴロ。暗殺後、この犯人の口を封じるため新たな暗殺が行われ、されにその暗殺者も、毒をもられて殺された。証拠は消えた。ケネディ暗殺の謎に似通った影の歴史がある。
これは メッセージ 1 (messages_admin さん)への返信です.
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