北伐から満州事変までの歴史
投稿者: akanbei_21c 投稿日時: 2004/09/09 13:53 投稿番号: [36180 / 196466]
1927年3月24日午前7時24分事件は起きた。その時、北伐軍の南京突入が不可避と判断されたため、居留民約百十名程度が前庭に集合していた。また揚子江を哨戒中(当時揚子江は国際水路)の駆逐艦から10名の水兵(荒木大尉指揮)が領事の要請により警備についていた。その頃、北伐軍は揚子江上の艦船を無差別に射撃、ハルクという日本の船会社(日清汽船)の傭船に乗り合わせた海軍の水兵(駆逐艦桃乗り組みの後藤1等機関兵)が殺された。
北伐軍の将校を含む40名が武器の隠匿を調査するとして領事館に乱入した。
8時になると暴兵に加え南京の一般市民も加わり、領事館本館の物品は根こそぎ持ち去られる状態となった。更にそれら暴徒は領事官邸にも押し入り森岡領事と家族は暴行を受けた。
領事館収容の居留民婦女子の多数が国民党兵士により強姦された。
英国・米国は日本に「共に出兵しよう。中国に鉄槌を!」と誘われたが、時の外務大臣の幣原喜重郎は対中融和路線を取り、その誘いを断った。
日本国民は政府の無策に激怒したが、政府は動かなかった。
1928年、蒋介石の北伐は続き山東省平定が始まると、日本政府は南京での事件の予防処置として、山東出兵(3000人)を決め出兵した。
ここで日本軍は国民党軍と対峙妨害する形となり、この中で”済南事件”が発生した。
日本国民はさらに激怒することになった。
この済南事件の惨劇は青島新報から出版された「山東省動乱記念写真帖」に
掲載され、広く国民に知れ渡ることになった。
http://koreaphoto.hp.infoseek.co.jp/731.html政府の対中国融和政策への不満は、日本国民の間に浸透し「日本人の安全を守る
為には、日本軍の武力行使による居留民の安全確保を」との認識が広まった。
これを背景として、日本軍内部に「大陸における、根本的な問題解決方法を・・」
と考えるグループが生まれた。
そして、満州事変へと突き進んでいった。
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