中国の海洋覇権には友好寄港地が必要
投稿者: mr_chinii 投稿日時: 2012/10/13 02:18 投稿番号: [192557 / 196466]
海洋覇権には、自国軍港の他に海外基地が必須である。現在、世界で唯一最大の米海軍には、同盟国日本の横須賀や佐世保を含み、海外基地が世界に数多い。原子力空母といえども、長期間の行動には補給や乗員の休養が欠かせない。特に補給は、それなりの備蓄と設備が必要である。ところが、中国には米海軍のような寄港地が皆無である。そのため、ミヤンマーや南洋諸島に港湾整備支援という名目で寄港地を確保しようとしていたが、すべて頓挫している。
代わりに、現在中国が目論んでいるのは、インド洋のパキスタンとスリランカである。これを牽制するため米空母2隻が現在インド洋に展開している。中国としては、インドと相性が悪いパキスタンとスリランカに目をつけたようだが、金を無心されて終わりだろうな(苦笑)。理由は、単純明快である。パキスタンはイスラム教国であり、スリランカはミヤンマーと同様の仏教国だということだ。中国共産党は、あらゆる宗教を排斥してきた。すなわちあらゆる神々を侮辱排斥してきたということだ。唯一奨励しているのは中国共産党イデオロギーでしかない。これには神々が存在しない。人類は、その生い立ちからなんらかの神々を信仰してきた。特に当時の人類の知恵では理解困難な事象に対し、神々が存在すると信じられてきた。中国共産党は、神々を非科学的だとして排斥してきた。要するに中国共産党に忠誠を誓わせるには、中国共産党を唯一無二の存在にしなければならなかったと言えよう。
中国共産党に神々の存在が理解できなかった原因は、マルクス・レーニンの共産主義哲学に起因していると考える。集団共産社会である。しかし、マルクス・レーニンの誤算は、集団社会をまとめるにはリーダーが必要であるということだ。もちろん、人望を集め、聖人君主のようなリーダーであればよいのだが、万物を超越した神々の存在認識がなければ、聖人の域には達しがたいのが人の世の常である。しかし、聖人と言えども人であることに変わりはない。ではその聖人は何を心の拠り所とするのだろうか? それは神である。目には見えない神である。その存在すら見えない。何故? 一言で言えば、神などどこにも存在しないということだ。もし存在するとしたなら、それは己の心の中にあるとでも言えよう。悪いことをしたなら、反省し悔いる。力不足ならば頑張ろうと誓う。親や女房子供が病気ならば、どうか治してほしいと念ずる。そのためならば、己を神に捧げてもよいと思う。こうして人の心は洗浄される。そして、何事に対しても、万物に対しても、感謝と慈愛の念が心の中に育まれると考える。科学技術が進んだ現在でも、日本では新年になると神社仏閣に参拝し、手を合わせて祈願する。もちろん、祈願が成就するなどとは思っていない。しかし、何かしらのご利益があるかも知れないと祈願する。要するに、人は手を合わせて祈願することにより、己に誰にも見られることなく正直になれるということだな。「すべてはお天とう様が見通しだ」という意識だ。
日本の各市町村には神社がある。これは日本古来からの神道だな。そして年に1回か2回、人々はこの神社を中心にして集まり、祭りを営む。祭りは一人ではできない。村人こぞって準備し、日頃の鬱憤を忘れて皆で楽しむ。祭りの準備も大変である。だから誰彼と無く力を合わせて準備する。汗水たらして準備する。お互いがお互いを認め合う瞬間だな。何だかんだ言い合うが、終わって見れば酒を酌み交わし、いい顔で酔う。こういう大人たちの姿を見て、子供たちも育つ。その子供たちが大人になれば、かっての大人たちと同じように祭りを行う。私は、日本人に生まれてきて実によかったと思う。中国には、これが無い。
何だか、中国の海洋制覇魂胆の話から脱線したな(苦笑)。
代わりに、現在中国が目論んでいるのは、インド洋のパキスタンとスリランカである。これを牽制するため米空母2隻が現在インド洋に展開している。中国としては、インドと相性が悪いパキスタンとスリランカに目をつけたようだが、金を無心されて終わりだろうな(苦笑)。理由は、単純明快である。パキスタンはイスラム教国であり、スリランカはミヤンマーと同様の仏教国だということだ。中国共産党は、あらゆる宗教を排斥してきた。すなわちあらゆる神々を侮辱排斥してきたということだ。唯一奨励しているのは中国共産党イデオロギーでしかない。これには神々が存在しない。人類は、その生い立ちからなんらかの神々を信仰してきた。特に当時の人類の知恵では理解困難な事象に対し、神々が存在すると信じられてきた。中国共産党は、神々を非科学的だとして排斥してきた。要するに中国共産党に忠誠を誓わせるには、中国共産党を唯一無二の存在にしなければならなかったと言えよう。
中国共産党に神々の存在が理解できなかった原因は、マルクス・レーニンの共産主義哲学に起因していると考える。集団共産社会である。しかし、マルクス・レーニンの誤算は、集団社会をまとめるにはリーダーが必要であるということだ。もちろん、人望を集め、聖人君主のようなリーダーであればよいのだが、万物を超越した神々の存在認識がなければ、聖人の域には達しがたいのが人の世の常である。しかし、聖人と言えども人であることに変わりはない。ではその聖人は何を心の拠り所とするのだろうか? それは神である。目には見えない神である。その存在すら見えない。何故? 一言で言えば、神などどこにも存在しないということだ。もし存在するとしたなら、それは己の心の中にあるとでも言えよう。悪いことをしたなら、反省し悔いる。力不足ならば頑張ろうと誓う。親や女房子供が病気ならば、どうか治してほしいと念ずる。そのためならば、己を神に捧げてもよいと思う。こうして人の心は洗浄される。そして、何事に対しても、万物に対しても、感謝と慈愛の念が心の中に育まれると考える。科学技術が進んだ現在でも、日本では新年になると神社仏閣に参拝し、手を合わせて祈願する。もちろん、祈願が成就するなどとは思っていない。しかし、何かしらのご利益があるかも知れないと祈願する。要するに、人は手を合わせて祈願することにより、己に誰にも見られることなく正直になれるということだな。「すべてはお天とう様が見通しだ」という意識だ。
日本の各市町村には神社がある。これは日本古来からの神道だな。そして年に1回か2回、人々はこの神社を中心にして集まり、祭りを営む。祭りは一人ではできない。村人こぞって準備し、日頃の鬱憤を忘れて皆で楽しむ。祭りの準備も大変である。だから誰彼と無く力を合わせて準備する。汗水たらして準備する。お互いがお互いを認め合う瞬間だな。何だかんだ言い合うが、終わって見れば酒を酌み交わし、いい顔で酔う。こういう大人たちの姿を見て、子供たちも育つ。その子供たちが大人になれば、かっての大人たちと同じように祭りを行う。私は、日本人に生まれてきて実によかったと思う。中国には、これが無い。
何だか、中国の海洋制覇魂胆の話から脱線したな(苦笑)。
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