中国人に遵法精神が欠如している理由
投稿者: mr_chinii 投稿日時: 2012/08/19 19:23 投稿番号: [191357 / 196466]
前回の私の投稿で述べたが、法治社会の最も基本となる法がいかにして誕生したかが、人々の遵法精神を根本から左右する。前回は「下からの目線(国民の目線)で定められた法なのか?」、逆に「上からの目線(為政者の目線)で定められた法なのか?」を論じた。
「法は法なのだから何の違いがあるのだ?」ということになるが、これには天国と地獄ほどの差があることを賢明な読者諸氏なら特に言わなくてもご存知のことと考える。しかし、中国人読者氏のために、もしおればのことだが、あえて論じることをお許し願いたい。この違いの事例はいとも簡単なところにも見られる。
事例:何のことはない交通信号機である。ある中国人男性が観光のため日本の東京に生まれて初めてやってきたときの感想文に書いてあった。東京都心部はいたるところに交差点があって、それぞれ信号機が設置されている。彼は「急用があるのか、急ぎ足で歩いている日本人男性サラリーマンが広い交差点に来たとき信号が赤になった。しかし、車は1台も通っていない。我々中国人の場合は、赤信号でもかまわず急いで渡るが、その日本人は青信号になるまでジッと待っていた。最初、私は日本人って何てバカなんだと思ったが、後になって、日本をより深く知ることになって、日本人の偉大さに敬服した」と言った風な書き方であった。
この中国人は、交通ルール、すなわち法は中国ではお上の意向で決められていることにやっと気づいたらしい。法はすべてお上の都合で決められているのだから、庶民としての自分に都合が悪い法などは「クソ食らえ!」と思っていたようである。要するに「お上が決めた法などは、見つからなければ何やったってかまわない。律儀に法を守っているヤツなどは馬鹿しかいない!」ということだ。上からの目線の法は、大体にしてこうなる。
では、下からの目線の法はどういうことになるのかな?日本や欧米先進国では、法は国民の事由闊達な議論を経て、多数決で成立する。例えば、赤信号では人も車も青信号になるまで止まって待たなければならないという法だな。なぜ赤信号では人も車も止まって待たなければならないのだ? このルールは、半世紀も前なら無視する日本人が結構おった。「車が通っていないのにわざわざ待つ必要はない」との認識である。しかしその後、日本は車社会となり、信号無視による死亡事故が多発した。死亡事故に至らなくても、信号は交通のスムーズな流れに大きく寄与している。かって、信号がない大交差点があったり、信号機が故障するケースが多々あったが、この場合、交差点では往々にして我先にと急ぐ車で身動きが取れない事態となっていた。やっと交通警官が来て車も人も流れるようになった。交通警官の手信号にみんなが一目置いた結果である。日本国民の民度・素養といえる。警官の行為は交通整理というが、警官個人の采配でもある。「こいつ、税金泥棒の警官のクセに生意気だ!」と人々が思えば、1警官の采配など「クソ食らえ!」となるが、大方の日本人はそうは思わなかった。「お前、警官なんだから、もっとうまく交通整理できんのか?」と言う目線だな。「警官なんだから..」という認識には大きな意味がある。すなわち、「俺たちは、お前を税金払って雇っているのだから、もっとうまく交通整理しろ!」ということだ。「もっとうまく交通整理しろ!の意識にも深い意味がある。「この警官、へたくそだ!」と思いながらも、車の運転者はしぶしぶ従う。うまくやれば、「よし、よくやった!」となる。
話が脱線したが、要するに下からの目線による法は、我々国民がたとえ異論があっても多数決でルールとして定めたものである。いやなら、改定すればいいだけの話だな。「国民の多数で定めたルールなのだから、自分ひとりが破っては申し訳ない」と言う意識が国民の一人ひとりに育まれる。これが遵法の精神となり、より円滑かつ公正な法治社会へと発展するのである。
余談だが、夜に居酒屋でほろ酔いになり、自宅へ歩いて帰る道がやたらと信号が多い。片側一車線の道路だが、夜は車が閑散となる。だから、赤信号であっても左右を見ながら渡ることがある。しかし、渡ってからの心持ちがすっきりしない。「やった!」という気持ちが湧かないのである。どこか後ろめたい気分に支配される。「誰かに見られてはいないか?」という気分だな(苦)。
「法は法なのだから何の違いがあるのだ?」ということになるが、これには天国と地獄ほどの差があることを賢明な読者諸氏なら特に言わなくてもご存知のことと考える。しかし、中国人読者氏のために、もしおればのことだが、あえて論じることをお許し願いたい。この違いの事例はいとも簡単なところにも見られる。
事例:何のことはない交通信号機である。ある中国人男性が観光のため日本の東京に生まれて初めてやってきたときの感想文に書いてあった。東京都心部はいたるところに交差点があって、それぞれ信号機が設置されている。彼は「急用があるのか、急ぎ足で歩いている日本人男性サラリーマンが広い交差点に来たとき信号が赤になった。しかし、車は1台も通っていない。我々中国人の場合は、赤信号でもかまわず急いで渡るが、その日本人は青信号になるまでジッと待っていた。最初、私は日本人って何てバカなんだと思ったが、後になって、日本をより深く知ることになって、日本人の偉大さに敬服した」と言った風な書き方であった。
この中国人は、交通ルール、すなわち法は中国ではお上の意向で決められていることにやっと気づいたらしい。法はすべてお上の都合で決められているのだから、庶民としての自分に都合が悪い法などは「クソ食らえ!」と思っていたようである。要するに「お上が決めた法などは、見つからなければ何やったってかまわない。律儀に法を守っているヤツなどは馬鹿しかいない!」ということだ。上からの目線の法は、大体にしてこうなる。
では、下からの目線の法はどういうことになるのかな?日本や欧米先進国では、法は国民の事由闊達な議論を経て、多数決で成立する。例えば、赤信号では人も車も青信号になるまで止まって待たなければならないという法だな。なぜ赤信号では人も車も止まって待たなければならないのだ? このルールは、半世紀も前なら無視する日本人が結構おった。「車が通っていないのにわざわざ待つ必要はない」との認識である。しかしその後、日本は車社会となり、信号無視による死亡事故が多発した。死亡事故に至らなくても、信号は交通のスムーズな流れに大きく寄与している。かって、信号がない大交差点があったり、信号機が故障するケースが多々あったが、この場合、交差点では往々にして我先にと急ぐ車で身動きが取れない事態となっていた。やっと交通警官が来て車も人も流れるようになった。交通警官の手信号にみんなが一目置いた結果である。日本国民の民度・素養といえる。警官の行為は交通整理というが、警官個人の采配でもある。「こいつ、税金泥棒の警官のクセに生意気だ!」と人々が思えば、1警官の采配など「クソ食らえ!」となるが、大方の日本人はそうは思わなかった。「お前、警官なんだから、もっとうまく交通整理できんのか?」と言う目線だな。「警官なんだから..」という認識には大きな意味がある。すなわち、「俺たちは、お前を税金払って雇っているのだから、もっとうまく交通整理しろ!」ということだ。「もっとうまく交通整理しろ!の意識にも深い意味がある。「この警官、へたくそだ!」と思いながらも、車の運転者はしぶしぶ従う。うまくやれば、「よし、よくやった!」となる。
話が脱線したが、要するに下からの目線による法は、我々国民がたとえ異論があっても多数決でルールとして定めたものである。いやなら、改定すればいいだけの話だな。「国民の多数で定めたルールなのだから、自分ひとりが破っては申し訳ない」と言う意識が国民の一人ひとりに育まれる。これが遵法の精神となり、より円滑かつ公正な法治社会へと発展するのである。
余談だが、夜に居酒屋でほろ酔いになり、自宅へ歩いて帰る道がやたらと信号が多い。片側一車線の道路だが、夜は車が閑散となる。だから、赤信号であっても左右を見ながら渡ることがある。しかし、渡ってからの心持ちがすっきりしない。「やった!」という気持ちが湧かないのである。どこか後ろめたい気分に支配される。「誰かに見られてはいないか?」という気分だな(苦)。
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