Re: 感謝状
投稿者: jpjptmd2004 投稿日時: 2012/07/24 17:53 投稿番号: [190864 / 196466]
文句あったら、1億憶回、繰り返し読んでからにしろ!
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中国は明の太祖の時代から琉球国へ冊封使の派遣を開始した。1534年の明代第11次冊封使・陳侃の『使琉球録』には、彼らが琉球国の使者と共に琉球へ向かう様子が次のように記されている。
十日、南風はなはだつよく、舟は飛ぶように進み、流れにそって下ってもあまり揺れなかった。平嘉山、釣魚嶼、黄毛嶼、赤嶼を次々と通りすぎ、見る暇もないくらいだった。一昼夜で三日間の航路を進み、夷の舟は帆が小さく、われわれの舟に及ばなかった。その後、十一日の夕方に古米山が見えた。これは琉球に属するもので、夷の人は舟上で歌い踊り、故郷への到着を喜んでいる。(訳注)」(1)古米山は姑米山(島)とも呼ばれ、現在の沖縄県久米島を指す。夷人は、当時船上にいた琉球人のことを指す。文中では琉球人が古米山を見て「舟上で歌い踊る」という、帰還の喜びがありありと描写されており、当時の琉球人が釣魚島を過ぎ、久米島に至って初めて「自国に帰ってきた」と認識していることがうかがえる。釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼などは元来琉球国には属さないことになる。
明の浙江提督である胡宗憲が1562年に編さんした書物『籌海図編』の「沿海山沙図」には、福建省の羅源県、寧徳県沿海の島々に「釣魚嶼」、「黄尾山」、「赤嶼」などの島が描かれており、明代には釣魚島が早くも中国の領土として、当時の防衛対象区域に組み込まれていたことがわかる。
その後、1562年の冊封使・郭儒霖の『重編使琉球録』では次のように書かれている。
「閏五月一日に釣魚嶼を通り過ぎ、三日には赤嶼についた。赤嶼は琉球との境にあたる山である。さらに一日進めば、姑米山(久米島)が見えてくる」とある。この文章は、当時の中国が釣魚島列島の中でも琉球国に最も近い赤嶼、すなわち現在の赤尾嶼を琉球国との境界としていたことを、よりはっきりと証明している。
清代に入り、中国と琉球の境界が釣魚島南方の海溝一帯であることは、中国の航海家の常識となっていた。清代の第2次冊封使・汪楫は1683年に琉球へ派遣され『使琉球雑録』を記した。同第5巻では、釣魚島、赤尾嶼を通り過ぎ、海難を防ぐための祭祀を行ったとき、船上の人が、舟が通り過ぎた海溝(当時は「過郊」あるいは「過溝」と呼ばれていた)が「中国と外国との境界」であることを伝えたという。その後、1756年に琉球へ派遣された周煌も、著書の『琉球国志略』第16巻で汪楫と同行者の問答に触れ、「『溝』とは何かを問うたところ、『中国と外国の境界』との答えだった」と記すとともに、「黒水溝」とは「みん(門に虫、福建省)との洋上の境界」であり、海溝を隔てて赤尾嶼から西の釣魚島などの島々はすべて中国の領土であることを裏付けている。
1719年に琉球へ派遣された清朝・康熙帝時代(1661〜1722年)の冊封使・徐葆光の『中山傳信録』は、当時の日本や琉球へ非常に大きな影響を与えた。同書は徐葆光が琉球で研究に専念し、琉球の地理学者や王朝の執政官らとの切磋琢磨の末に書き記したもので、大変緻密で信用度も高い。同書は和訳され、日本人が琉球を理解する重要な資料となった。同書による琉球への冊封使派遣ルートは、福州から花瓶、彭佳、釣魚の島々の北側を経て赤尾嶼から姑米山へと至る。同書では、姑米山は「琉球西南方界上鎮山」、つまり琉球の西南境界にある鎮守の山であるという注がついており、現在の八重山群島にある与那国島を「琉球南西の最果ての境界」としている。
上述のとおり、明、清代の政府は一貫して釣魚島を中国の領土としてきた
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中国は明の太祖の時代から琉球国へ冊封使の派遣を開始した。1534年の明代第11次冊封使・陳侃の『使琉球録』には、彼らが琉球国の使者と共に琉球へ向かう様子が次のように記されている。
十日、南風はなはだつよく、舟は飛ぶように進み、流れにそって下ってもあまり揺れなかった。平嘉山、釣魚嶼、黄毛嶼、赤嶼を次々と通りすぎ、見る暇もないくらいだった。一昼夜で三日間の航路を進み、夷の舟は帆が小さく、われわれの舟に及ばなかった。その後、十一日の夕方に古米山が見えた。これは琉球に属するもので、夷の人は舟上で歌い踊り、故郷への到着を喜んでいる。(訳注)」(1)古米山は姑米山(島)とも呼ばれ、現在の沖縄県久米島を指す。夷人は、当時船上にいた琉球人のことを指す。文中では琉球人が古米山を見て「舟上で歌い踊る」という、帰還の喜びがありありと描写されており、当時の琉球人が釣魚島を過ぎ、久米島に至って初めて「自国に帰ってきた」と認識していることがうかがえる。釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼などは元来琉球国には属さないことになる。
明の浙江提督である胡宗憲が1562年に編さんした書物『籌海図編』の「沿海山沙図」には、福建省の羅源県、寧徳県沿海の島々に「釣魚嶼」、「黄尾山」、「赤嶼」などの島が描かれており、明代には釣魚島が早くも中国の領土として、当時の防衛対象区域に組み込まれていたことがわかる。
その後、1562年の冊封使・郭儒霖の『重編使琉球録』では次のように書かれている。
「閏五月一日に釣魚嶼を通り過ぎ、三日には赤嶼についた。赤嶼は琉球との境にあたる山である。さらに一日進めば、姑米山(久米島)が見えてくる」とある。この文章は、当時の中国が釣魚島列島の中でも琉球国に最も近い赤嶼、すなわち現在の赤尾嶼を琉球国との境界としていたことを、よりはっきりと証明している。
清代に入り、中国と琉球の境界が釣魚島南方の海溝一帯であることは、中国の航海家の常識となっていた。清代の第2次冊封使・汪楫は1683年に琉球へ派遣され『使琉球雑録』を記した。同第5巻では、釣魚島、赤尾嶼を通り過ぎ、海難を防ぐための祭祀を行ったとき、船上の人が、舟が通り過ぎた海溝(当時は「過郊」あるいは「過溝」と呼ばれていた)が「中国と外国との境界」であることを伝えたという。その後、1756年に琉球へ派遣された周煌も、著書の『琉球国志略』第16巻で汪楫と同行者の問答に触れ、「『溝』とは何かを問うたところ、『中国と外国の境界』との答えだった」と記すとともに、「黒水溝」とは「みん(門に虫、福建省)との洋上の境界」であり、海溝を隔てて赤尾嶼から西の釣魚島などの島々はすべて中国の領土であることを裏付けている。
1719年に琉球へ派遣された清朝・康熙帝時代(1661〜1722年)の冊封使・徐葆光の『中山傳信録』は、当時の日本や琉球へ非常に大きな影響を与えた。同書は徐葆光が琉球で研究に専念し、琉球の地理学者や王朝の執政官らとの切磋琢磨の末に書き記したもので、大変緻密で信用度も高い。同書は和訳され、日本人が琉球を理解する重要な資料となった。同書による琉球への冊封使派遣ルートは、福州から花瓶、彭佳、釣魚の島々の北側を経て赤尾嶼から姑米山へと至る。同書では、姑米山は「琉球西南方界上鎮山」、つまり琉球の西南境界にある鎮守の山であるという注がついており、現在の八重山群島にある与那国島を「琉球南西の最果ての境界」としている。
上述のとおり、明、清代の政府は一貫して釣魚島を中国の領土としてきた
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これは メッセージ 190863 (jptmd2004 さん)への返信です.
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