日中関係

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Re: 母夜叉ルンルン72は母夜叉桜井と、そっ

投稿者: run_run72 投稿日時: 2012/07/07 08:15 投稿番号: [190468 / 196466]
>国民党にしろうか、共産党にしろうか、どうでもいい、中国戦場で戦死した日本兵の数字である。

で、八路の活躍説はひっこめた(笑)

満州国内では相手はソ連だろうしな。

>因みに、枢軸国のドイツは日本と同盟国です、何の馬鹿なことを言ってるね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%8B%AC%E5%90%88%E4%BD%9C

最終的にドイツが国民党政府と縁を切ったのは1941年だそうだから。
日中戦争前半はドイツ軍のおかげで戦えたようなもの。
(優れた武器、訓練等々の点でな)
ユンカースやフォッケウルフまであったんか(笑)
ウィキペディアで悪いが、他にも探せばいろいろでてくるから。

>ドイツによる中国国民党軍の軍備再編 [編集]
ドイツの軍事援助は、人材育成と組織整備だけでなく、軍需物資提供に及んでいた。ゼークトの分析によると、中国式兵器の8割は近代戦で使えない代物だった。中独合作の一環として、揚子江沿いにある既存の兵器廠を発展させていく方針が盛り込まれていた。例えば、漢陽兵工廠(en) は、1935年から1936年にかけて最新設備に作りかえられた。この工廠で、二四式機関銃、8cm迫撃砲の他、マウザー製Kar98k小銃をモデルとして、蒋介石の名前を取った中正式歩兵銃が作られた。
中正式歩兵銃と漢陽88式歩兵銃は、国民革命軍全軍に配布され、有力な火器として使用された[16]。また別の工場では、ガスマスクの製造と、最終的には中止されたものの、マスタードガスの製造プラントの建設が計画された。1938年5月、湖南省に20mm、37mmおよび75mm砲の生産工場が作られた。1936年後半、南京近郊に双眼鏡、狙撃銃用の照準器等の光学部品工場が作られた。

このハインケル111Aは飛行省によって買われた11機のうちの1つで、その後中国航空集団に再利用された。
このほかにも、MG34、各種口径の山砲、装甲偵察車Sd Kfz 222などの工場が作られた。軍事研究所もいくつか作られた。兵工廠研究所、イーゲー・ファルベン社指導で作られた化学研究所などである。これらの多くはドイツで教育を受けた中国人技術者により運営された。一方、1935年から1936年にかけて、中国はドイツにM35型シュタールヘルム31万5千個と、Gewehr 88小銃、Gewehr 98小銃、モーゼルC96型拳銃多数を注文した。さらに、少量ではあるが、ヘンシェルHs 123や、ユンカース、ハインケル、フォッケウルフの航空機を購入し、一部は中国国内で組み立てている。さらに、ラインメタル、クルップから3.7 cm PaK 36や15cm sFH 18などの榴弾砲、対戦車砲、山砲、さらにはI号戦車などの装甲戦闘車両を購入した。
これらの近代化は、直後の日中戦争で効果を発揮し、日本軍は予想以上の犠牲を払うこととなった。国民革命軍は多くの主要都市の占領を許したが、士気は高まった。一方で、日本軍は国民政府が遷都した重慶をついに攻略することはできなかった。

>1937年5月には軍事顧問団は100名を超えるまで膨れ上がり、ナチス政権発足前の1928年の30名から大きく増加していた[14]。ヒトラーの外交政策が変更され日独防共協定が締結されると、中国とドイツの関係は弱められていった。ヒトラーは、ソ連のボリシェヴィキ主義に対抗するには日本の方が頼りになると考え、同盟国に日本を選んだ[17]。
さらに中国が1937年8月21日に結んだ中ソ不可侵条約によりヒトラーの態度は硬化し、中国系ロビイストやドイツ人投資家から執拗な抗議を受けても変わらなかった。ヒトラーは、中国からの既に注文済みの品の輸出の妨害こそしなかったものの、以後新たな対中輸出が認められることはなかった。…
1938年前半に、ドイツは満州国を正式に承認した。その年の4月、ヘルマン・ゲーリングにより、中国への軍需物資の輸出が禁止された。さらに同5月、日本の要請を聞き入れ、ドイツは顧問団を中国から引き上げた。

------ つまり、南京事件のときは、
日本とドイツは明確に敵だったわけだ。
100名もの軍事顧問団がいるわけだからな。 -- -

>ドイツが親交国を中国から日本に切り替えたことは、ドイツの経済界を失望させた。・・・その一方で、ナチス幹部達は、日本を中国で勃興する共産主義に対する最後の防波堤と位置づけていた。

1941年、南京国民政府の汪兆銘とナチス政権下のドイツの外交官の会合
…しかし、ドイツが1940年のバトル・オブ・ブリテンでイギリスを攻めあぐねているうちに、ヒトラーの興味を奪ってしまった[20]。ドイツはその年の終わりに日独伊三国軍事同盟を締結した。それを受けてドイツは1941年7月、重慶に移っていた国民政府と手を切り、南京の汪兆銘政権を中国の公式政府として承認した。
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