チベットへの一方的侵略行為の確認
投稿者: nisemono_kusai 投稿日時: 2001/07/27 12:00 投稿番号: [18984 / 196466]
共産中国のチベット侵入
1949年10月1日、共産党が国民党に勝利し、中華人民共和国が成立した。その後まもなく、北京放送は次のような放送を開始した。
人民解放軍は、中国全土を解放せねばならない。チベット、新彊(しんきょう)、海南島、
台湾も例外ではない
この脅迫に応える意味も含め、また、長いあいだ横たわってきた中国との国境問題を解決するため、1949年11月2日、チベット外務省は毛沢東に書簡をしたため、あらゆる国境問題について話し合う旨を提案した。書簡の写しは、インド、イギリス、米国にも送られた。
3国とも、共産主義の拡大によって南アジアの安定が脅かされるという点では考えが一致していた。しかしチベット政府に対しては、中国との直接交渉を提案するにとどまった。へたに中国を刺激すると、武力で報復されかねないというのがその理由であった。
そこでチベット政府は、ツェポン・シャカッパとツェチャク・トゥプテン・ギェルポ(ポタラ宮殿財務責任者)という2名の代表を派遣し、中国の代表と、できればソ連かシンガポール、あるいは香港で話し合いをもつことに決めた。
以下は1949年の己丑年のチベット暦12月15日、国民議会(ツォンドゥ)によって代表団のために発行された信任状の摘要である。
雪の国チベットは、観音菩薩の化身によって代々統治されてきた平和を愛し、仏法への
信仰篤き独立国である。中国の内戦中、わが国の平和は敗残兵の侵入に脅かされ、
かき乱されてきた。チベットの外務局は己丑年9月12日、毛沢東主席に文書を送り、
中国兵がチベット国境に侵入しないようにその権力を行使してほしいと要請した。
しかるに中国はこの要請に対し何ら返答せず、かわりに、西寧と北京のラジオ放送が
チベットを中国の1部と宣言し、チベットの解放を人々に対して扇動した。
チベット問題に関する一切の全権を委任されたこの代表団は、以下の項目について
交渉を行うものである。
1.チベット外務局より毛沢東主席宛ての、返答を得られなかった文書に関して
2.西寧と北京放送のおそるべき声明について
3.チベット領土保全の保障をとりつけること
4.チベット政府及び人民は、ダライ・ラマ継承制度に関していかなる介入も受けるつもりは
なく、チベットの独立維持の意志を中国政府に通告する
チベット代表団がデリーで香港のビザを申請すると、中国は、次期駐印中国大使がまもなくデリーに着任するから、まずは彼と話してみてほしいと伝えてきた。袁仲賢(えんちゅうけん)中国大使は、交渉の過程において次の2カ条の提案を代表団に押しつけた。
1.チベットの国防を中国の管轄とすること。
2.チベットが中国の1部であると認めること。
ついで代表団は、北京に赴いて正式に同意を表明するよう求められた。中国の要求を聞いたチベット政府は、代表団に提案は受け入れないように指示を与え、交渉はこうして暗礁に乗り上げた。
1950年10月7日、王其梅(おうきばい)政治委員[政治委員は、人民解放軍のポストのひとつ]に率いられた4万の軍隊が、東チベットの州都チャムド[昌都]に八方から攻撃を加えた。国軍と義勇兵からなるわずか8,000のチベット軍は敗退し、チャムドは2日で陥落した。州知事アポ・アワン・ジクメーは捕らえられ、この戦いで4,000人以上のチベット人闘士が落命した。
解放軍によるチベット侵略は、インドに激しい衝撃を与えた。1950年10月26日に北京に送った覚書のなかで、インド外務省は次のように厳しい書き方をしている。
中国政府がチベット侵略を命じた現在、平和的な話し合いなど望むべくもありません。
チベットとしては、交渉が強制の場になるのではないかという心配が当然出てくると思わ
れます。現在の世界情勢からみても、人民解放軍によるチベット占領は、愚行としか映ら
ないでありましょう。
また、わが国の外務省が慎重に検討しましたところでも、貴国の利益にならないのでは
ないかと危惧いたします。
アメリカとイギリスをはじめとする多くの国々が、インドの立場を支持した。チベット国民議会は、同年10月に緊急会議を召集し、国家元首の地位を、当時わずか16歳だったダライ・ラマが引き継ぐよう要請した。また身の安全のため、ダライ・ラマはラサを離れてインド国境に近いドモ[中国名=亞東(ヤートン)]に行くことが求められた。
1949年10月1日、共産党が国民党に勝利し、中華人民共和国が成立した。その後まもなく、北京放送は次のような放送を開始した。
人民解放軍は、中国全土を解放せねばならない。チベット、新彊(しんきょう)、海南島、
台湾も例外ではない
この脅迫に応える意味も含め、また、長いあいだ横たわってきた中国との国境問題を解決するため、1949年11月2日、チベット外務省は毛沢東に書簡をしたため、あらゆる国境問題について話し合う旨を提案した。書簡の写しは、インド、イギリス、米国にも送られた。
3国とも、共産主義の拡大によって南アジアの安定が脅かされるという点では考えが一致していた。しかしチベット政府に対しては、中国との直接交渉を提案するにとどまった。へたに中国を刺激すると、武力で報復されかねないというのがその理由であった。
そこでチベット政府は、ツェポン・シャカッパとツェチャク・トゥプテン・ギェルポ(ポタラ宮殿財務責任者)という2名の代表を派遣し、中国の代表と、できればソ連かシンガポール、あるいは香港で話し合いをもつことに決めた。
以下は1949年の己丑年のチベット暦12月15日、国民議会(ツォンドゥ)によって代表団のために発行された信任状の摘要である。
雪の国チベットは、観音菩薩の化身によって代々統治されてきた平和を愛し、仏法への
信仰篤き独立国である。中国の内戦中、わが国の平和は敗残兵の侵入に脅かされ、
かき乱されてきた。チベットの外務局は己丑年9月12日、毛沢東主席に文書を送り、
中国兵がチベット国境に侵入しないようにその権力を行使してほしいと要請した。
しかるに中国はこの要請に対し何ら返答せず、かわりに、西寧と北京のラジオ放送が
チベットを中国の1部と宣言し、チベットの解放を人々に対して扇動した。
チベット問題に関する一切の全権を委任されたこの代表団は、以下の項目について
交渉を行うものである。
1.チベット外務局より毛沢東主席宛ての、返答を得られなかった文書に関して
2.西寧と北京放送のおそるべき声明について
3.チベット領土保全の保障をとりつけること
4.チベット政府及び人民は、ダライ・ラマ継承制度に関していかなる介入も受けるつもりは
なく、チベットの独立維持の意志を中国政府に通告する
チベット代表団がデリーで香港のビザを申請すると、中国は、次期駐印中国大使がまもなくデリーに着任するから、まずは彼と話してみてほしいと伝えてきた。袁仲賢(えんちゅうけん)中国大使は、交渉の過程において次の2カ条の提案を代表団に押しつけた。
1.チベットの国防を中国の管轄とすること。
2.チベットが中国の1部であると認めること。
ついで代表団は、北京に赴いて正式に同意を表明するよう求められた。中国の要求を聞いたチベット政府は、代表団に提案は受け入れないように指示を与え、交渉はこうして暗礁に乗り上げた。
1950年10月7日、王其梅(おうきばい)政治委員[政治委員は、人民解放軍のポストのひとつ]に率いられた4万の軍隊が、東チベットの州都チャムド[昌都]に八方から攻撃を加えた。国軍と義勇兵からなるわずか8,000のチベット軍は敗退し、チャムドは2日で陥落した。州知事アポ・アワン・ジクメーは捕らえられ、この戦いで4,000人以上のチベット人闘士が落命した。
解放軍によるチベット侵略は、インドに激しい衝撃を与えた。1950年10月26日に北京に送った覚書のなかで、インド外務省は次のように厳しい書き方をしている。
中国政府がチベット侵略を命じた現在、平和的な話し合いなど望むべくもありません。
チベットとしては、交渉が強制の場になるのではないかという心配が当然出てくると思わ
れます。現在の世界情勢からみても、人民解放軍によるチベット占領は、愚行としか映ら
ないでありましょう。
また、わが国の外務省が慎重に検討しましたところでも、貴国の利益にならないのでは
ないかと危惧いたします。
アメリカとイギリスをはじめとする多くの国々が、インドの立場を支持した。チベット国民議会は、同年10月に緊急会議を召集し、国家元首の地位を、当時わずか16歳だったダライ・ラマが引き継ぐよう要請した。また身の安全のため、ダライ・ラマはラサを離れてインド国境に近いドモ[中国名=亞東(ヤートン)]に行くことが求められた。
これは メッセージ 18977 (nisemono_kusai さん)への返信です.
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