明和の大津波から241年。
投稿者: sintyou7 投稿日時: 2012/04/24 21:24 投稿番号: [188760 / 196466]
http://www.bo-sai.co.jp/yaeyamajisintsunami.html
<1771年4月24日(明和8年3月10日)午前8時ごろ、沖縄県石垣島南東沖約40Km(北緯24.0度、東経124.3度)を震源とするマグニチュード7.4の地震が発生。
地震の揺れによる被害は一部の建物や石垣が崩れるなどの被害はあったが比較的軽微であった。
しかし、この地震によって大きな被害を引き起こしたのは最大28丈2尺(85.4m・石垣島)の大津波であった。
津波は三波まで襲来し第二波が一番大きかったと伝えられている。
八重山群島(死者行方不明9,313人)、宮古群島(死者行方不明2,548人)などで死者行方不明者合計11,861人もの琉球史上最悪の大惨事に発展する。
石垣島では真栄里・大浜・宮良・白保を含む八村の大部分が流失・全壊し、石垣島の津波前人口17,394名が津波後は8,910名と、じつに人口の48%が死亡または行方不明となった。
大浜村も当時の津波前の人口が男670名、女732名の計1,402名だったが、津波後に死亡行方不明者を差し引いた生存者数は、男98名、女17名の計115名で、91.8%の人口を失い人口は12分の1に減少するという壊滅的被害となった。
★M7.4で大津波を引き起こした?そのプロセス及びその震源地は?
気象庁や理科年表などによればこの地震の震源地は石垣島南東約40Km(北緯24.0度、東経124.3度)の断層が動いたとされている。
ただM7.4の地震でこれほどまでの大津波が発生するということにはいくつかの疑問もあってか、地震後に海底で大規模な地滑りなどが発生した複合津波ではないかと推定されてきた。
しかし、これまでの海底調査では石垣島南東40Km・北緯24.0度、東経124.3度付近で断層が動いた明確な形跡や大規模な海底地すべりの痕跡は未だ見つかっていない。
(琉球大学理学部の中村衛先生は、石垣島南東沖約40Kmの断層ではなく、もっと沖合の海溝型のM8クラスの巨大地震だったという研究を発表されている)
八重山地震・明和の大津波を引き起こしたのがこれまで通説とされてきたM7.4のエネルギーだとすれば、震源断層の長さは一般的に約40Km程度であり、断層のずれだけでこれほどの大津波を引き起こすことは考えられない。
また、海底地すべりが同時に発生したとすれば極めて大規模な地滑りであるはずで、海底調査で200年前程度の変動痕跡は判明していなければならない。
しかし、海溝型でM8クラスの巨大地震だったとすれば震源断層の長さは150Km前後と推定され巨大津波が発生する可能性は高く、今後の研究成果が期待されている<<
<当時の測量技術については石垣市の桃林寺と権現堂の建立記録に、慶長14年(1609年)琉球を征服した薩摩藩は直ちに全琉球の測量を実施し、慶長16年(1611年)には八重山に測量隊が派遣されたという記述(慶長の検地)がある。
「丈量竿を使って検地帳に記載した」と書かれている。この測量隊が時の琉球王(尚寧王)に対し八重山に社寺建立を進言した結果、慶長19年(1614年)に現在の桃林寺と権現堂が創建されたとされている。
その後正保4年(1648年)にも薩摩の測量隊が来島したという記録もある。
薩摩の測量隊といえども当時は現代からみれば初歩的な測量技術でしかなかったと思われるが、測量隊には常に琉球の測量役人も随行したとされるので、蔵元の役人の中にはこうした技術を持ったものが居ても不思議ではない。
過去40年以上津波被災地の調査をしてきて共通していたことは、津波の遡上た地域は樹木や草地が塩害・潮やけで枯れてしまっていて鮮明に判別できたことである。
そのため津波の遡上高さは第三者が客観的に後からでも確認することは比較的容易であった。
明和の大津波当時も応急対応後、蔵元役人が現地を回り海面を基準にして高低測量を行い○丈○尺と報告したものではないか、根拠のない数値を報告したとは考えにくい。私は、王府に報告された「大波之時各村之形行書」に書かれた28丈2尺という数値はおおむね信頼できると思われる<<
<★現在、茶山と呼ばれている山林一帯(石垣市字平得大俣135番地付近)は昔からスリ山とも呼ばれている。
地元の人の話では明和大津波のとき、津波が通過した際、山をすり切ったということによって生まれたという話である。
津波が通過した所は草木が潮やけして枯れてしまうので、津波が山肌をすり切ったというニュアンスは胸に落ちるものがあり、一直線に駆け上ったというより斜面を横からすり切ったのではないかと考えら
<1771年4月24日(明和8年3月10日)午前8時ごろ、沖縄県石垣島南東沖約40Km(北緯24.0度、東経124.3度)を震源とするマグニチュード7.4の地震が発生。
地震の揺れによる被害は一部の建物や石垣が崩れるなどの被害はあったが比較的軽微であった。
しかし、この地震によって大きな被害を引き起こしたのは最大28丈2尺(85.4m・石垣島)の大津波であった。
津波は三波まで襲来し第二波が一番大きかったと伝えられている。
八重山群島(死者行方不明9,313人)、宮古群島(死者行方不明2,548人)などで死者行方不明者合計11,861人もの琉球史上最悪の大惨事に発展する。
石垣島では真栄里・大浜・宮良・白保を含む八村の大部分が流失・全壊し、石垣島の津波前人口17,394名が津波後は8,910名と、じつに人口の48%が死亡または行方不明となった。
大浜村も当時の津波前の人口が男670名、女732名の計1,402名だったが、津波後に死亡行方不明者を差し引いた生存者数は、男98名、女17名の計115名で、91.8%の人口を失い人口は12分の1に減少するという壊滅的被害となった。
★M7.4で大津波を引き起こした?そのプロセス及びその震源地は?
気象庁や理科年表などによればこの地震の震源地は石垣島南東約40Km(北緯24.0度、東経124.3度)の断層が動いたとされている。
ただM7.4の地震でこれほどまでの大津波が発生するということにはいくつかの疑問もあってか、地震後に海底で大規模な地滑りなどが発生した複合津波ではないかと推定されてきた。
しかし、これまでの海底調査では石垣島南東40Km・北緯24.0度、東経124.3度付近で断層が動いた明確な形跡や大規模な海底地すべりの痕跡は未だ見つかっていない。
(琉球大学理学部の中村衛先生は、石垣島南東沖約40Kmの断層ではなく、もっと沖合の海溝型のM8クラスの巨大地震だったという研究を発表されている)
八重山地震・明和の大津波を引き起こしたのがこれまで通説とされてきたM7.4のエネルギーだとすれば、震源断層の長さは一般的に約40Km程度であり、断層のずれだけでこれほどの大津波を引き起こすことは考えられない。
また、海底地すべりが同時に発生したとすれば極めて大規模な地滑りであるはずで、海底調査で200年前程度の変動痕跡は判明していなければならない。
しかし、海溝型でM8クラスの巨大地震だったとすれば震源断層の長さは150Km前後と推定され巨大津波が発生する可能性は高く、今後の研究成果が期待されている<<
<当時の測量技術については石垣市の桃林寺と権現堂の建立記録に、慶長14年(1609年)琉球を征服した薩摩藩は直ちに全琉球の測量を実施し、慶長16年(1611年)には八重山に測量隊が派遣されたという記述(慶長の検地)がある。
「丈量竿を使って検地帳に記載した」と書かれている。この測量隊が時の琉球王(尚寧王)に対し八重山に社寺建立を進言した結果、慶長19年(1614年)に現在の桃林寺と権現堂が創建されたとされている。
その後正保4年(1648年)にも薩摩の測量隊が来島したという記録もある。
薩摩の測量隊といえども当時は現代からみれば初歩的な測量技術でしかなかったと思われるが、測量隊には常に琉球の測量役人も随行したとされるので、蔵元の役人の中にはこうした技術を持ったものが居ても不思議ではない。
過去40年以上津波被災地の調査をしてきて共通していたことは、津波の遡上た地域は樹木や草地が塩害・潮やけで枯れてしまっていて鮮明に判別できたことである。
そのため津波の遡上高さは第三者が客観的に後からでも確認することは比較的容易であった。
明和の大津波当時も応急対応後、蔵元役人が現地を回り海面を基準にして高低測量を行い○丈○尺と報告したものではないか、根拠のない数値を報告したとは考えにくい。私は、王府に報告された「大波之時各村之形行書」に書かれた28丈2尺という数値はおおむね信頼できると思われる<<
<★現在、茶山と呼ばれている山林一帯(石垣市字平得大俣135番地付近)は昔からスリ山とも呼ばれている。
地元の人の話では明和大津波のとき、津波が通過した際、山をすり切ったということによって生まれたという話である。
津波が通過した所は草木が潮やけして枯れてしまうので、津波が山肌をすり切ったというニュアンスは胸に落ちるものがあり、一直線に駆け上ったというより斜面を横からすり切ったのではないかと考えら
これは メッセージ 1 (messages_admin さん)への返信です.
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