Re: 殲20
投稿者: yume_sarasa1211 投稿日時: 2011/01/16 01:38 投稿番号: [186004 / 196466]
和服は「呉服」といい、たしかにもとは呉の国由来のものですが、当時、
漢人というのは黄河から淮水にかけての中原という地域に住んでいた人たち
であって、呉は今の上海あたりで、漢族とは人種が異なります。
漢族から見て異民族でした。
その証拠に、北京語と上海語とはまったく違うでしょう。
呉の人たちも多く、戦乱から逃れて日本に移住してきていたようです。
呉由来のものはほかに、「くれない」(呉・くれ の藍)、
くれはとり、これが後の服部さんに。
ただ、呉服が移入してこなかったからといって、古代の日本人が
裸でいたわけでもないでしょうに、バカなことを言う支那人ですね。
寺は、確かに支那由来のもの。
寺というのは、もともと役所のことで、
仏教経典が支那に多く入ってきたとき、その翻訳にあたる僧侶をその役所に
住まわせた、それが現在の寺院を言うようになりました。
道教の寺院のことは、観といい、寺とは言わないことからもわかります。
「侍」というのは、「寺」に人偏がついています。もとは役人のことです。
で現在、支那のどこをさがしてもその「寺」はありません。
何かあるために打ち壊し、破壊してきたからです。
日本では、奈良・京都でたいせつに保存されてきました。
だから、支那の学者には、日本の奈良・京都にきて日本の寺院を目にし
感激のあまり涙を流す人もいるのです。
東アジア最古の木造建築は、法隆寺です。
ちなみに、神主さんの衣装は、支那・唐代の貴族の衣装です。
神主さんやお雛さまが手に持っているおしゃもじみたいなものは
何だと思いますか。ただの飾りではなく立派な実用品です。
あれは朝廷に出仕した官僚がカンニングペーパーを貼っておいたり、
紙を貼ってメモをとったりするものでした。
刺身は、支那にもあったし日本にもありました。
日本は海に囲まれていますから、別に支那から教えてもらう必要はありません。
縄文・弥生の展覧会に行くと、当時の献立が展示してあります。
かなり、ご馳走を食べていたようです。
支那人も刺身を食べました。「膾」といっているのがそれです。
ただし、支那は水が悪いところにもってきて、河は昔から非常に不潔な
使い方をされていたために、生魚を食べると食中毒の絶え間がなかった、
だから、だんだん刺身をたべなくなったのです。
支那人がまた刺身を食べるようになったのは最近のことです。
豆腐については知りませんが、支那でも南方由来のものではないでしょうか。
すなわち、漢族のものではないと思われます。
文人類学では、同じ加工品で納豆が、東南アジアと日本と共通点があると
言っています。
ルンルンさんも書いておられるように、DNA でも、古代、中原にいた
漢民族と現代の漢族とはまったく違います。
戦乱による混血、殺戮を繰り返すことで、古代漢族の血は完全に絶滅しています。
これは白血病ウイルスの追跡調査からも明らかにされています。
したがって、日本人と現在の支那人とは遺伝的に共通点を持っていません。
朝鮮人とも違っています。
モンゴル・南米チリ・コロンビアの先住民が日本人と同じ祖先です。
支那大陸では、漢人に追いやられた、あるいは漢人との混血を嫌った
少数の民族が奥地へ奥地へと逃れていった、
これが現在の支那の少数民族です。
長江あたりに住んでいた民族が、漢族に追われ、また混血を嫌って
どんどん南下して行った、これが現在のベトナム・タイ・ビルマあたり。
屈原は長江中流域の楚の王族ですが、漢族ではなく、
今のベトナム人の祖先ではないでしょうか。
項羽も、『史記』では漢族の扱いになっていますが、
ほんとうのところはチワン族ではないか、と考える学者もいます。
満洲は、辛亥革命のスローガンが「滅満興漢」であったことからも
わかるように、そして蒋介石が化外の地として支那の領土とは考えて
いなかったことからも、日本が支那から領土を略奪したわけでも
なんでもなく、溥儀をもとの領土に戻してやっただけというわけですね。
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漢人というのは黄河から淮水にかけての中原という地域に住んでいた人たち
であって、呉は今の上海あたりで、漢族とは人種が異なります。
漢族から見て異民族でした。
その証拠に、北京語と上海語とはまったく違うでしょう。
呉の人たちも多く、戦乱から逃れて日本に移住してきていたようです。
呉由来のものはほかに、「くれない」(呉・くれ の藍)、
くれはとり、これが後の服部さんに。
ただ、呉服が移入してこなかったからといって、古代の日本人が
裸でいたわけでもないでしょうに、バカなことを言う支那人ですね。
寺は、確かに支那由来のもの。
寺というのは、もともと役所のことで、
仏教経典が支那に多く入ってきたとき、その翻訳にあたる僧侶をその役所に
住まわせた、それが現在の寺院を言うようになりました。
道教の寺院のことは、観といい、寺とは言わないことからもわかります。
「侍」というのは、「寺」に人偏がついています。もとは役人のことです。
で現在、支那のどこをさがしてもその「寺」はありません。
何かあるために打ち壊し、破壊してきたからです。
日本では、奈良・京都でたいせつに保存されてきました。
だから、支那の学者には、日本の奈良・京都にきて日本の寺院を目にし
感激のあまり涙を流す人もいるのです。
東アジア最古の木造建築は、法隆寺です。
ちなみに、神主さんの衣装は、支那・唐代の貴族の衣装です。
神主さんやお雛さまが手に持っているおしゃもじみたいなものは
何だと思いますか。ただの飾りではなく立派な実用品です。
あれは朝廷に出仕した官僚がカンニングペーパーを貼っておいたり、
紙を貼ってメモをとったりするものでした。
刺身は、支那にもあったし日本にもありました。
日本は海に囲まれていますから、別に支那から教えてもらう必要はありません。
縄文・弥生の展覧会に行くと、当時の献立が展示してあります。
かなり、ご馳走を食べていたようです。
支那人も刺身を食べました。「膾」といっているのがそれです。
ただし、支那は水が悪いところにもってきて、河は昔から非常に不潔な
使い方をされていたために、生魚を食べると食中毒の絶え間がなかった、
だから、だんだん刺身をたべなくなったのです。
支那人がまた刺身を食べるようになったのは最近のことです。
豆腐については知りませんが、支那でも南方由来のものではないでしょうか。
すなわち、漢族のものではないと思われます。
文人類学では、同じ加工品で納豆が、東南アジアと日本と共通点があると
言っています。
ルンルンさんも書いておられるように、DNA でも、古代、中原にいた
漢民族と現代の漢族とはまったく違います。
戦乱による混血、殺戮を繰り返すことで、古代漢族の血は完全に絶滅しています。
これは白血病ウイルスの追跡調査からも明らかにされています。
したがって、日本人と現在の支那人とは遺伝的に共通点を持っていません。
朝鮮人とも違っています。
モンゴル・南米チリ・コロンビアの先住民が日本人と同じ祖先です。
支那大陸では、漢人に追いやられた、あるいは漢人との混血を嫌った
少数の民族が奥地へ奥地へと逃れていった、
これが現在の支那の少数民族です。
長江あたりに住んでいた民族が、漢族に追われ、また混血を嫌って
どんどん南下して行った、これが現在のベトナム・タイ・ビルマあたり。
屈原は長江中流域の楚の王族ですが、漢族ではなく、
今のベトナム人の祖先ではないでしょうか。
項羽も、『史記』では漢族の扱いになっていますが、
ほんとうのところはチワン族ではないか、と考える学者もいます。
満洲は、辛亥革命のスローガンが「滅満興漢」であったことからも
わかるように、そして蒋介石が化外の地として支那の領土とは考えて
いなかったことからも、日本が支那から領土を略奪したわけでも
なんでもなく、溥儀をもとの領土に戻してやっただけというわけですね。
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これは メッセージ 185981 (run_run72 さん)への返信です.
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