Re: お前、相当頭が逝かれてるようだな〜。
投稿者: sintyou7 投稿日時: 2009/08/22 21:31 投稿番号: [177864 / 196466]
>台湾の大学の中には、留学生の卒業名簿を作る際、沖縄から来た留学生は出身国の欄に「日本」ではなく「琉球」としているところがあると聞いた。台北の空港では、沖縄行きの飛行機の行き先表示は「那覇」ではなく「琉球」だった。
台湾で「琉球」が「日本」とは別の存在と考えられているのは、歴史的な経緯による。沖縄は、中国で明王朝が興った直後の1372年から、明治維新後の1879年に強制的に日本に組み込まれるまで500年間、中国(明朝と清朝)の王朝帝国に従属する「琉球王国」であった。
この間、江戸幕府が日本を統一した直後の1609年には、鹿児島の大名である島津家(薩摩藩)に沖縄を武力侵攻させ、江戸幕府の体制下に組み入れた。琉球王国は奄美大島など沖縄本島より北の島々を薩摩藩に奪われ、沖縄本島とその南の宮古島、八重山諸島は薩摩藩の監督支配下に置かれ、重税を納めさせられた。
だが、琉球と中国(清朝)との外交関係はそのまま続いたため、中国からみて琉球が属国である状態は変わらなかった。幕府と島津家は、琉球に中国との外交関係を維持させることで、貿易収入の上前をはねる政策をとったのだった。
琉球王国は、鎖国政策の例外的な存在として、江戸時代の幕藩体制に組み込まれなかった。だが明治維新で日本が開国し、台湾や南洋、中国に向かって支配を広げる意志を持つようになると、その第一歩として1879年、沖縄を日本帝国の版図に組み入れるため、琉球王朝を廃止し、代わりに沖縄県を設置する命令を下した。
これは「琉球処分」と呼ばれ、1609年の薩摩軍による侵略、「本土防衛」のために沖縄が「捨て石」にされた太平洋戦争末期の沖縄戦、沖縄だけを本土から切り離し「基地問題」を固定化した戦後のサンフランシスコ条約とともに、「日本(ヤマト)が沖縄に行った数々のひどいこと」の一つに数えられ、沖縄の被害者意識を補強する材料となっている。
「琉球処分」に対して、中国(清国政府)は強く抗議した。琉球王国の遺臣たちの中にも、清国から援軍を得て日本を追い払おうと考える人々がいた。だが、すでに弱体化が始まっていた清国は、その後の日清戦争で日本に負け、沖縄どころかその先の台湾まで日本に奪われ、琉球を助けることはなかった。
とはいえ清国の側には、日本が武力を盾に琉球を囲い込んだことを認めない意識も強く、それが後継政権の中華民国(台湾政府)にも引き継がれ、「琉球」と「日本」とを別の存在として考えるゆえんとなっている。「尖閣諸島問題」もまた、こうした歴史の延長にある。
調べてみると実は「琉球」は、600年ごろに書かれた中国の書物に、台湾周辺を指す地名として「流求」という名称が出ており、その後は「留求」とも呼ばれていたという。
▼明からもらった琉球のアイデンティティ
「琉球王国」のアイデンティティは、中国・明朝によって権威づけられた国際貿易にあった。
明朝は周辺の国々に対し、明に従属する態度を表明すれば、その地域の「王」として認定(冊封)し、中国との貿易で経済的な利益を与える「冊封体制」と呼ばれる外交戦略を展開した。
当時の中国文明は世界の最先端を行っており、陶磁器を始めとする中国製品は、世界中で高く売れた。琉球王朝は、その冊封システムを積極的に利用し、琉球と中国との貿易だけでなく、日本、朝鮮から東南アジアに至る海域で、広く中継貿易を行った。
明の「属国」といっても、軍事的に支配されるわけではない。徳川や薩摩といった日本が琉球を武力侵攻したのと比べ、明や清の冊封体制は、外交的な面子さえ維持されていれば平和な支配であった。中国人が「日本人は野蛮だ」とみるのは、この種の歴史背景がある。
琉球王国は、明にとっては台湾よりも重要な存在だった。当時の中国の文献では、沖縄は「大琉球」、台湾は「小琉球」と呼ばれていた。台湾は沖縄より大きな島なのに、沖縄の方が「大」だったのは、明からみて「より文明化(中国化)された島」であると認定されていたからだ。台湾史上最初の中国人勢力である鄭成功の王朝ができるのは、琉球王国ができてから約200年後である。
大琉球と小琉球は今日でも、意外な点でつながっている。「沖縄の基地は、台湾のために存在している面が強い」と、台湾で国民党の幹部から聞いた。アメリカは中国との外交関係上、台湾を守りたくても台湾島内に基地を作れないから、近くの沖縄に基地を置き続け、「日米安保条約」によって、台湾を中国の軍事的脅威から守ってくれているのだという>>
。
台湾で「琉球」が「日本」とは別の存在と考えられているのは、歴史的な経緯による。沖縄は、中国で明王朝が興った直後の1372年から、明治維新後の1879年に強制的に日本に組み込まれるまで500年間、中国(明朝と清朝)の王朝帝国に従属する「琉球王国」であった。
この間、江戸幕府が日本を統一した直後の1609年には、鹿児島の大名である島津家(薩摩藩)に沖縄を武力侵攻させ、江戸幕府の体制下に組み入れた。琉球王国は奄美大島など沖縄本島より北の島々を薩摩藩に奪われ、沖縄本島とその南の宮古島、八重山諸島は薩摩藩の監督支配下に置かれ、重税を納めさせられた。
だが、琉球と中国(清朝)との外交関係はそのまま続いたため、中国からみて琉球が属国である状態は変わらなかった。幕府と島津家は、琉球に中国との外交関係を維持させることで、貿易収入の上前をはねる政策をとったのだった。
琉球王国は、鎖国政策の例外的な存在として、江戸時代の幕藩体制に組み込まれなかった。だが明治維新で日本が開国し、台湾や南洋、中国に向かって支配を広げる意志を持つようになると、その第一歩として1879年、沖縄を日本帝国の版図に組み入れるため、琉球王朝を廃止し、代わりに沖縄県を設置する命令を下した。
これは「琉球処分」と呼ばれ、1609年の薩摩軍による侵略、「本土防衛」のために沖縄が「捨て石」にされた太平洋戦争末期の沖縄戦、沖縄だけを本土から切り離し「基地問題」を固定化した戦後のサンフランシスコ条約とともに、「日本(ヤマト)が沖縄に行った数々のひどいこと」の一つに数えられ、沖縄の被害者意識を補強する材料となっている。
「琉球処分」に対して、中国(清国政府)は強く抗議した。琉球王国の遺臣たちの中にも、清国から援軍を得て日本を追い払おうと考える人々がいた。だが、すでに弱体化が始まっていた清国は、その後の日清戦争で日本に負け、沖縄どころかその先の台湾まで日本に奪われ、琉球を助けることはなかった。
とはいえ清国の側には、日本が武力を盾に琉球を囲い込んだことを認めない意識も強く、それが後継政権の中華民国(台湾政府)にも引き継がれ、「琉球」と「日本」とを別の存在として考えるゆえんとなっている。「尖閣諸島問題」もまた、こうした歴史の延長にある。
調べてみると実は「琉球」は、600年ごろに書かれた中国の書物に、台湾周辺を指す地名として「流求」という名称が出ており、その後は「留求」とも呼ばれていたという。
▼明からもらった琉球のアイデンティティ
「琉球王国」のアイデンティティは、中国・明朝によって権威づけられた国際貿易にあった。
明朝は周辺の国々に対し、明に従属する態度を表明すれば、その地域の「王」として認定(冊封)し、中国との貿易で経済的な利益を与える「冊封体制」と呼ばれる外交戦略を展開した。
当時の中国文明は世界の最先端を行っており、陶磁器を始めとする中国製品は、世界中で高く売れた。琉球王朝は、その冊封システムを積極的に利用し、琉球と中国との貿易だけでなく、日本、朝鮮から東南アジアに至る海域で、広く中継貿易を行った。
明の「属国」といっても、軍事的に支配されるわけではない。徳川や薩摩といった日本が琉球を武力侵攻したのと比べ、明や清の冊封体制は、外交的な面子さえ維持されていれば平和な支配であった。中国人が「日本人は野蛮だ」とみるのは、この種の歴史背景がある。
琉球王国は、明にとっては台湾よりも重要な存在だった。当時の中国の文献では、沖縄は「大琉球」、台湾は「小琉球」と呼ばれていた。台湾は沖縄より大きな島なのに、沖縄の方が「大」だったのは、明からみて「より文明化(中国化)された島」であると認定されていたからだ。台湾史上最初の中国人勢力である鄭成功の王朝ができるのは、琉球王国ができてから約200年後である。
大琉球と小琉球は今日でも、意外な点でつながっている。「沖縄の基地は、台湾のために存在している面が強い」と、台湾で国民党の幹部から聞いた。アメリカは中国との外交関係上、台湾を守りたくても台湾島内に基地を作れないから、近くの沖縄に基地を置き続け、「日米安保条約」によって、台湾を中国の軍事的脅威から守ってくれているのだという>>
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これは メッセージ 177863 (konoyo_anoyo さん)への返信です.
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