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国際法と慣習法2。

投稿者: sintyou6 投稿日時: 2008/09/10 22:14 投稿番号: [171602 / 196466]
>ヘラート市では実に、160万人が殺され、バグダードでは、カリフが、和を求めてモンゴル陣営に入るや否や、たちまち約束を違えて殺し、その後、市内になだれ込んですさまじい略奪と殺戮を繰り返した。

200万以上いたとされる市民はことごとく虐殺され、女と子供は奴隷として送られた。500年続いたカリフの血統は絶たれ、モスクと宮殿は炎に包まれ、中東最大の商業都市は完全に破壊された。
記録によると市内で虐殺されたものすごい数の腐った死体から発せられる悪臭のために、モンゴル軍は野営地を引き払わざるを得なかったという。


こうしてモンゴル軍が疾風のごとく西進するにつれ、中央アジアからイラン全土にかけてのあらゆる都市が完膚なき破壊と大殺戮の憂き目に合い、無人の廃虚と変わり果てていったのである。
 
”悪魔”の遠征は、西へ西へと容赦なく続けられ、まもなくロシアの各都市は殺戮と略奪にあい次々と陥落していった。ロシアの諸候は震えおののいた。モンゴル軍の死の爪から逃れんと、おびただしい避難民がハンガリーになだれ込み始めた。


かくのごとく恐ろしいモンゴル軍の接近に慌てふためいたヨーロッパではただちに、ドイツ、ポーランド4万の連合軍が組織され、この敵をリーグニッツ城の近くで迎え撃つことになった。

ヨーロッパ連合軍にはさまざまな地域から勇猛で恐れられた騎士団も含まれていたが、モンゴルのすぐれた戦術で、たちまち数時間ほどで撃破され、騎士のすべては殺された。この騎士団を率いていたハイリク大公は逃げるところを殺され、その首は、刎ねられて槍の先に串刺しにされた挙げ句に、市壁ぞいにさらされた。

丘は死体と血の海でおおわれ、この地はワールシュタット(死体の山)と呼ばれるようになったのである。
 
リーグニッツの戦いからわずか2日後、サヨ川を渡り終えたモンゴル軍はそこに布陣する10万のハンガリー軍をたちまち撃破した。ハンガリーの死者6万。モンゴル軍は逃げる敵を追撃して容赦なく殺していった。街道には石切り場のように死体が散乱していたという。
 
もはやここからは、大西洋まで、彼らの進撃を阻むいかなる勢力も存在しないと思われた。ヨーロッパ全土が、彼らに蹂躙され、はかり知れない人々が虐殺されることは、ほぼ間違いのないように思われた。まさに風前の灯火であった。
しかし、この時、奇跡が起きた。モンゴル帝国の二代目のハン、オゴタイが急死したという知らせが持たらされたのである。そのため、司令官バツゥは、モンゴル全軍の撤退を決意した。こうして、間一髪のところで、ヨーロッパは、かろうじて壊滅と虐殺の危機から救われることになったのである。


この悪魔の軍隊は日本にも2度攻めてきた。もしも、日本列島が大陸にもう少し近い位置にあるか陸続きであったなら、たちどころに蹂躙され、報復の破壊と大虐殺の目にあっていたに違いない。なぜならば、時の執権北条時宗は2度もモンゴルの使者を切り捨てているのである。そうなれば、その後の日本史はずいぶんと変わった経路をたどったことだろう。


チンギス・ハ−ンとその子供らは侵略戦争の論理を打ち立てて実践し、世界史上まれに見る大殺戮と破壊の限りを尽くしたのである。侵略戦争において、人間に本来内在する残忍性、怪物性をことごとく証明したと言えるだろう。>>


はい、此処で質問。
この様な行動は、良いことでしょうか?悪い事でしょうか?

①いや、その当時はそれが普通の慣習だったから、何も悪くない。侵略とは言えない。
当たり前の事だ。さすが、チンギス・ハーンは立派で偉大だ。すばらしい国家だった。

②普通、例え、700年以上経った現在でも、これは野蛮な行為である事は言うまでもなく、普通、人類としての慣習からしたら、時代の違いもへったくれも無く当然、侵略、大殺戮の残虐非道な悪魔である。


①と②がどちらが正しいのか?

細菌の、馬鹿の論議である。

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