歴史を知らない馬鹿尚キョン。
投稿者: sintyou5 投稿日時: 2008/03/16 23:40 投稿番号: [156751 / 196466]
わはっっははh、今日もご苦労だな。
新記録更新中です。
ダライラマは嘘つきだったな。脳無ひょーんみたいだな。
どっかの国の馬鹿達は、インフラ整備して人口を2倍にしてやったのだ、
と偉そうに何処かにぴーちくしてる、しと達と同じ人種だなんて信じられないな。
前にも書いたのが、もう一度書こう。
>ダライ・ラマの神聖政治期には、土地をはじめほとんどの生産手段は、三種類の地主に押さえられていた――役人、貴族、高位のラマ僧だ。かれらは人口のわずか五パーセントでしかない。チベット人の大半は農奴や奴隷であり、1951 年には百万人にのぼった。かれらは極貧にあげぎ、主人の領有する土地の付属物とされ、教育も保健も個人の自由も、一切の地位や権利もなかった。そして無給の労働(ウラグ)を強制され、すさまじい地代を搾り取られていた。
農業は焼き畑式。近代産業はないも同然。交通輸送はもっぱら動物や人間の背。人生はおおむね悲惨で短く、病気が猖獗をきわめ、人口は停滞し、平均寿命は 36 歳。旧チベットでは、僧侶や尼が人口の一割を占めていた。この抑圧的な封建神権制の頂点にいたのが、ダライ・ラマという制度にして個人なのだった。
1951 年以前のチベットには、まともな学校はなかった。千年前から続く、仏教経典学習と部分的にチベット語に特化した僧院学校が教育の主要形態だった。僧院の外には役人に対してごく基本的な教育――読み書き算数と仏典暗唱――を提供する学校はないわけではなかったが、その生徒数は千人以下。当然ながら、文盲率は九割以上だった。
これほど劣悪な社会経済状況から出発すれば、発展が早いのも当然だろう。武装蜂起とダライ・ラマの逃亡で引き起こされた 1959 年の民主改革により、農奴制と地主至上主義は廃止され、社会主義制度が段階的にチベットに導入された。これも紆余曲折があり、導入をあまりに急がせようとする「極左」的な試みもあった――特に 1966-1977 年の文化大革命は、中国の他の部分と同様に、チベットにおいても人生、経済、教育、宗教、文化的伝統にとって大幅で嘆かわしい被害を与えてしまった
多くのチベット人は 1961-1965 年を物質的生活の「黄金時代」として記憶しているが、チベットの生活と仕事を一変させたのは、1978 年以降の経済改革と開放政策、および政治面での最近の進展だ。中国のトップ指導者だちは、自国の「西部開発」のためにもっとずっと尽力できたはずだと公式に認めている。特にチベットにはもっと支援できたはずだ、と。この地域に開発主導政策を新たに適用しはじめたのは訒小平だった。胡耀邦は 1980 年に重要なチベット視察を行い、チベット開発の優先度をさらに上げた。そして10年後に 江沢民が視察訪問を行っている。
胡錦涛自身、十年以上にわたって、チベットに隣接する貴州省における中国共産党組織者として活動しており、その後は中国共産党チベット自治区地域委員会の書記をつとめている。
だが通常のチベット家庭の多くで見られるのは、毛沢東の肖像だ――かれはいまだに旧封建体制の地主や僧侶たちから農奴百万人を解放してくれた存在と考えられているからだ。また多くのチベット家庭は、ダライ・ラマ十四世の肖像と、パンチェンラマ十世と十一世の肖像を同時に掲げても特に矛盾は感じないようだ。これは2000年に訪問時には見られなかったものであり、チベットの社会政治状況が自治区内外でずっとゆるやかになってきていることを示している。
>経済は急速に発展している。2006年の経済成長は少なく見積もっても 13.2 パーセント。中国全体では 10.5 パーセントにとどまっている。第二に、物質的な反映の到来と安定した人口増、生活水準の向上、教育や技能訓練の充実、その他近代化プロセス全般が、人々の生活や仕事、考え方を多きに変えているということ。特にチベット人口の多くを占める若者で顕著だ。第三の要因は、チベット自治区の内外での政治環境が、苦闘の結果として大幅に改善されたこと。第四は、青海チベット鉄道は青海省の中心都市西寧とラサとを結ぶ、 1,956 km の驚異的エンジニアリングプロジェクトだ。第五の要因は、「チベット独立」運動の思いこみだけの世界と、実際のチベットの現実との間の乖離が広がる一方だということ。このためにダライ・ラマは政治的な要求を一段下げて、統一中国の主権下における「自治」という要求をするようになっている。>>
続く。
新記録更新中です。
ダライラマは嘘つきだったな。脳無ひょーんみたいだな。
どっかの国の馬鹿達は、インフラ整備して人口を2倍にしてやったのだ、
と偉そうに何処かにぴーちくしてる、しと達と同じ人種だなんて信じられないな。
前にも書いたのが、もう一度書こう。
>ダライ・ラマの神聖政治期には、土地をはじめほとんどの生産手段は、三種類の地主に押さえられていた――役人、貴族、高位のラマ僧だ。かれらは人口のわずか五パーセントでしかない。チベット人の大半は農奴や奴隷であり、1951 年には百万人にのぼった。かれらは極貧にあげぎ、主人の領有する土地の付属物とされ、教育も保健も個人の自由も、一切の地位や権利もなかった。そして無給の労働(ウラグ)を強制され、すさまじい地代を搾り取られていた。
農業は焼き畑式。近代産業はないも同然。交通輸送はもっぱら動物や人間の背。人生はおおむね悲惨で短く、病気が猖獗をきわめ、人口は停滞し、平均寿命は 36 歳。旧チベットでは、僧侶や尼が人口の一割を占めていた。この抑圧的な封建神権制の頂点にいたのが、ダライ・ラマという制度にして個人なのだった。
1951 年以前のチベットには、まともな学校はなかった。千年前から続く、仏教経典学習と部分的にチベット語に特化した僧院学校が教育の主要形態だった。僧院の外には役人に対してごく基本的な教育――読み書き算数と仏典暗唱――を提供する学校はないわけではなかったが、その生徒数は千人以下。当然ながら、文盲率は九割以上だった。
これほど劣悪な社会経済状況から出発すれば、発展が早いのも当然だろう。武装蜂起とダライ・ラマの逃亡で引き起こされた 1959 年の民主改革により、農奴制と地主至上主義は廃止され、社会主義制度が段階的にチベットに導入された。これも紆余曲折があり、導入をあまりに急がせようとする「極左」的な試みもあった――特に 1966-1977 年の文化大革命は、中国の他の部分と同様に、チベットにおいても人生、経済、教育、宗教、文化的伝統にとって大幅で嘆かわしい被害を与えてしまった
多くのチベット人は 1961-1965 年を物質的生活の「黄金時代」として記憶しているが、チベットの生活と仕事を一変させたのは、1978 年以降の経済改革と開放政策、および政治面での最近の進展だ。中国のトップ指導者だちは、自国の「西部開発」のためにもっとずっと尽力できたはずだと公式に認めている。特にチベットにはもっと支援できたはずだ、と。この地域に開発主導政策を新たに適用しはじめたのは訒小平だった。胡耀邦は 1980 年に重要なチベット視察を行い、チベット開発の優先度をさらに上げた。そして10年後に 江沢民が視察訪問を行っている。
胡錦涛自身、十年以上にわたって、チベットに隣接する貴州省における中国共産党組織者として活動しており、その後は中国共産党チベット自治区地域委員会の書記をつとめている。
だが通常のチベット家庭の多くで見られるのは、毛沢東の肖像だ――かれはいまだに旧封建体制の地主や僧侶たちから農奴百万人を解放してくれた存在と考えられているからだ。また多くのチベット家庭は、ダライ・ラマ十四世の肖像と、パンチェンラマ十世と十一世の肖像を同時に掲げても特に矛盾は感じないようだ。これは2000年に訪問時には見られなかったものであり、チベットの社会政治状況が自治区内外でずっとゆるやかになってきていることを示している。
>経済は急速に発展している。2006年の経済成長は少なく見積もっても 13.2 パーセント。中国全体では 10.5 パーセントにとどまっている。第二に、物質的な反映の到来と安定した人口増、生活水準の向上、教育や技能訓練の充実、その他近代化プロセス全般が、人々の生活や仕事、考え方を多きに変えているということ。特にチベット人口の多くを占める若者で顕著だ。第三の要因は、チベット自治区の内外での政治環境が、苦闘の結果として大幅に改善されたこと。第四は、青海チベット鉄道は青海省の中心都市西寧とラサとを結ぶ、 1,956 km の驚異的エンジニアリングプロジェクトだ。第五の要因は、「チベット独立」運動の思いこみだけの世界と、実際のチベットの現実との間の乖離が広がる一方だということ。このためにダライ・ラマは政治的な要求を一段下げて、統一中国の主権下における「自治」という要求をするようになっている。>>
続く。
これは メッセージ 156744 (jmkefosd871006 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/ffccf4x78_1/156751.html