国際世論に耳貸さず?中国、
投稿者: rknts7 投稿日時: 2008/03/16 00:07 投稿番号: [156561 / 196466]
国際世論に耳貸さず?中国、ダライ・ラマの影響力恐れる
03/15 21:13更新
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記事本文 【北京=伊藤正】中国チベット自治区の区都ラサで発生した大規模な騒乱事件に対し、胡錦濤政権は、ダライ・ラマ14世に扇動された分離独立運動グループの策謀とし、武力行使を含めた強硬姿勢で制圧する方針を明確にした。強硬手段は既に海外の懸念や批判を招き、北京五輪ボイコット論を強めかねないが、独立運動の封じ込めは、台湾問題などにも通じる国策であり、自制を求める国際世論に耳を貸すことはなさそうだ。
1951年に中国軍が進攻して「解放」した後、共産党の対チベット政策は、毛沢東の社会主義化路線の下で、チベット人の反感を募らせ、59年3月には、大規模な暴動事件に発展、ダライ・ラマがインドに亡命する事態になった。文革中にはラマ寺院の破壊など、伝統的宗教、文化が弾圧された。
80年3月、胡耀邦・元総書記が主宰したチベット工作会議で、毛沢東時代の誤った政策を正し、自治区幹部へのチベット人大量登用、宗教、文化の尊重、中央からの経済支援強化など8項目の方針を決める。同年5月には胡氏がチベットを訪問、中央と現地の緊張関係は緩和された。
80年代前半の共産党のチベット政策は、チベット人の物質生活を改善、チベット人による自治権を広げるもので、チベット人指導者が頻繁にトウ小平氏ら中央指導者と会談したが、チベット人の精神的指導者ダライ・ラマの亡命政府への厳しい姿勢は変わらなかった。
88年1月、ダライ・ラマ亡命後のチベット指導者になったパンチェン・ラマ10世(全人代副委員長)が急死した後、その後継者選出問題などで、ラマ僧らが独立を求めるデモを始め、翌89年春には騒乱事件に発展。このとき、ラサに戒厳令を敷き、騒乱を鎮圧したのが自治区書記だった胡錦濤氏だった。
今回の騒乱事件は、それ以来約20年ぶりになる。この間、中央政府の支援でチベットは、経済発展を遂げたものの、ラサはじめ主要都市の経済実権の多くは漢人(漢族)が握り、漢人とチベット人の関係は緊張を深めていたといわれる。
こうした中で、ダライ・ラマ自身は数年前から帰国を希望し、代理人と中国側との折衝を続けてきた。ダライは独立要求を取り下げ、信仰の自由など高度の自治権を求めたが、折衝は進展していない。中国側は、ダライの影響力を恐れ、その肖像の保持さえ不法としている。
ダライ・ラマは今回の騒乱との関与を否定しているが、中国当局がダライを直接名指し攻撃したのは、中国の警戒心を示している。
中国が台湾やチベットなどの独立を非合法にした反国家分裂法を制定、公布したのは3年前だった。改革・開放が進み、五輪を開催するまでになったとはいえ、独立運動への監視は厳しく、先には新疆ウイグル自治区で東トルキスタン独立運動が弾圧された。
中国当局は独立運動強化の名目のひとつに五輪でのテロ防止を挙げているが、民族の独立という基本的な要求を武力で鎮圧することには国内でも疑問が出ている。
しかし、チベットや新疆ウイグル地区は、豊富な地下資源があることも加わって、中国は鉄道や道路建設に力を入れ、同化政策をさらに強化する方向にある。問題はそれが現地人の心をとらえられていないことにある。
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1951年に中国軍が進攻して「解放」した後、共産党の対チベット政策は、毛沢東の社会主義化路線の下で、チベット人の反感を募らせ、59年3月には、大規模な暴動事件に発展、ダライ・ラマがインドに亡命する事態になった。文革中にはラマ寺院の破壊など、伝統的宗教、文化が弾圧された。
80年3月、胡耀邦・元総書記が主宰したチベット工作会議で、毛沢東時代の誤った政策を正し、自治区幹部へのチベット人大量登用、宗教、文化の尊重、中央からの経済支援強化など8項目の方針を決める。同年5月には胡氏がチベットを訪問、中央と現地の緊張関係は緩和された。
80年代前半の共産党のチベット政策は、チベット人の物質生活を改善、チベット人による自治権を広げるもので、チベット人指導者が頻繁にトウ小平氏ら中央指導者と会談したが、チベット人の精神的指導者ダライ・ラマの亡命政府への厳しい姿勢は変わらなかった。
88年1月、ダライ・ラマ亡命後のチベット指導者になったパンチェン・ラマ10世(全人代副委員長)が急死した後、その後継者選出問題などで、ラマ僧らが独立を求めるデモを始め、翌89年春には騒乱事件に発展。このとき、ラサに戒厳令を敷き、騒乱を鎮圧したのが自治区書記だった胡錦濤氏だった。
今回の騒乱事件は、それ以来約20年ぶりになる。この間、中央政府の支援でチベットは、経済発展を遂げたものの、ラサはじめ主要都市の経済実権の多くは漢人(漢族)が握り、漢人とチベット人の関係は緊張を深めていたといわれる。
こうした中で、ダライ・ラマ自身は数年前から帰国を希望し、代理人と中国側との折衝を続けてきた。ダライは独立要求を取り下げ、信仰の自由など高度の自治権を求めたが、折衝は進展していない。中国側は、ダライの影響力を恐れ、その肖像の保持さえ不法としている。
ダライ・ラマは今回の騒乱との関与を否定しているが、中国当局がダライを直接名指し攻撃したのは、中国の警戒心を示している。
中国が台湾やチベットなどの独立を非合法にした反国家分裂法を制定、公布したのは3年前だった。改革・開放が進み、五輪を開催するまでになったとはいえ、独立運動への監視は厳しく、先には新疆ウイグル自治区で東トルキスタン独立運動が弾圧された。
中国当局は独立運動強化の名目のひとつに五輪でのテロ防止を挙げているが、民族の独立という基本的な要求を武力で鎮圧することには国内でも疑問が出ている。
しかし、チベットや新疆ウイグル地区は、豊富な地下資源があることも加わって、中国は鉄道や道路建設に力を入れ、同化政策をさらに強化する方向にある。問題はそれが現地人の心をとらえられていないことにある。
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