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中世日本のトイレ

投稿者: taipei_made_benki 投稿日時: 2008/03/13 15:56 投稿番号: [156250 / 196466]
http://homepage3.nifty.com/onion/labo/excretionjp.html

◆中世日本のトイレ◆

一般庶民の方はどうかと言うと、ほぼ垂れ流しの状態であったことが分かっています。従来通り川の中にひり出したり、道路や建物の片隅で踏ん張ったりと、かなり不潔な状態でした。現在は京都有数の商店街としてにぎわう「錦小路」は、かつては「糞小路」と呼ばれ、人々の排泄物を捨てる場所だったと言われています。また、「清水の舞台」で有名な清水寺の、すぐ下の谷は、排泄物や人間の死体を投げ入れる場所として使われたそうです。

人間の排泄物を肥料として使用する、いわゆる「下肥(しもごえ)」は、古く殷(いん)の時代までさかのぼることができます。当時の様子を描いた甲骨文(骨に記した記録)にも、「田に糞を播いた」という記述が見えます。

日本では、平安中期から下肥は使用されましたが、1191年に鎌倉幕府が二毛作を奨励すると、いよいよその少量は増し、それにつれて農作物の生産量も増大します。戦国時代(15世紀半ば〜16世紀)は日本でもまれに見る多くの戦死者を出した時代でありますが、その150年間に、日本の人口は逆に1000万人から1700万人へと、ほぼ倍増しています。

◆近世・近代のトイレ◆

江戸時代に入ると、人々の排泄物はほぼそのすべてが肥料として使用されるようになり、街や村のあちこちに「回収所」としての公衆便所が設置されました。都市は排泄物で悩まされることもなくなり、かなり清潔な状態が保たれました。イエスズ会の修道士で戦国時代に日本を訪れたルイス・フロイスは、著書「日欧文化比較」の中で「日本の町はとても綺麗だ」と驚きを込めて書いてますし、江戸時代後期の医師フランツ・フォン・シーボルトも、著書「参府紀行」の中で、同様に日本の町がよく掃除されていることを書き残しています。

やがて、下肥そのものが「商品」として扱われるようになり、農民は武家や町民から下肥を「購入」し、代わりに野菜や木工品などを置いていったと言います。大都市の大家のほとんどの収入はこの「下肥」から得られたと言われ、その額は現在の価値に直すと、江戸全体で16〜20億円にも達したと言われています。値段は時代が下がるごとにますます急騰し、江戸時代後期には「値段」の高さに悲鳴を上げた武蔵(東京都・埼玉県)や下総(千葉県)の農民が、値下げを求めてストライキを起こしています。

その下肥も、明治時代に入ると急速に減少へと向かいます。外国から持ち込まれたコレラが大流行したというのもありますが、最も大きな要因は「下水道」と「化学肥料」の登場です。また、都市人口の増加と農業人口の減少も、需給バランスに大きな影響を与えました。

大正期に入ると、「お金を払って農民が下肥を得てゆく」という従来の形が崩れ、逆に料金を支払って汲み取り業者に回収してもらう、という現在のスタイルが確立します。昭和5年(1930年)には排泄物の処理は東京市などの自治体の義務となり、昭和9年(1934年)にはその処理が有料となりました。

それでも、昭和半ばまで下肥は使い続けられます。現在、多くの通勤客を運んでいることで知られる西武鉄道新宿線は、かつて「西部農業鉄道」という呼称であり、下肥を郊外に運ぶ鉄道として機能したと言います。
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